写経と「蜜蜂と遠雷」と写真と社会と生きると…

面白いnoteに出会ったのでTB的に思索。
写経をするにあたって、最初は下書きの文字に沿い忠実に写すことが大切というお話。やがて型に納まらない自分がみえてくる。それが個性であり自由である、云々。もっとも、ブッダが写経をそのように捉えて推奨しているかはどうかは、興味深い疑問なんだけどね、笑

(「経の書写をして」@冬穂さん  
埋め込み方がわからんorz 

これを読んで思い出したのが仕事で世話になっている書家の言である。
書家いわく、「臨書」が大切で、しかも書として最高レベルに達している古典の臨書の必要性を説く。繰り返し臨書をするなかで自分の表現にたどり着くというわけさ。
書の表現は書道をしないボクには解らない。
お仕事で書展を観にいっても、ほ〜、みんな上手いなぁ〜、となんとなく思ったふりをする。おそらく茶道や華道なんかも同じなのかもしれないなぁ、と想像する。

なんて考えながらリンク先のnoteを読んでいたのだけど、さらに妄想は膨らむ。

最初に再読し終わった「蜜蜂と遠雷」が浮かんだ。
クラッシックの世界。これも楽譜に忠実にが基本だと聞いたことがあるが、忠実に再現するだけでなく、再現の先にある個々の表現が大切だと「蜜蜂と遠雷」からも読み取れる。
これもボクには解らない分野だけだ、言葉巧みに伝えようとした「蜜蜂と遠雷」から想像することはできた。もっとも物語は、その基本やら型からぶっ飛んだ風間塵の世界観がどうだ、という「そもそも」を問い直しているので、面白いのだけど。
言葉の表現としては面白いのだけど、その音が実際の聴覚を通してとなるとやはりボクには解らないと思う。だから映画は観ても解らないだろう、なので観ない。クラッシクを音として解り「蜜蜂と遠雷」を読み納得した人が、映画を観たらどう思うのだろう、という興味はあるのだけどね、笑。

さて、書道やクラッシックは解らないと書いたのだけど、ボクでもその感覚がなんとなく解る気がするのが写真。独学だけど最初は教則本にかかれている基本に忠実に撮った。3年ほどはずっと教則本にかかれたアングルや構図や、明暗(露出補正)、被写界深度や背景処理、シャッター速度etcで撮った。いつしかそれらを意識しなくなり写真になったときの被写体の表情がわかってきた。もちろんオマエの写真程度で何を言う、と言われるかもしれないけどね。(それでも自分なりの世界観はある)。
そのうえ、たまに他者の撮った「おお、この写真は、、」という表現に出会うからやめられない。
そうだ、森歩き「道」みたいなものもあれば、森歩きの基本から基本の向こうに浮かぶ世界観があるのかもしれないな。
他に浮かんだのは「傾聴」。いまはまだ基本を愚直に守っているが、すこしづつ基本を意識しなくなってきている。傾聴をしているという意識せずに傾聴ができつつある。この先にゆけばなんとなく自分の傾聴の色、世界観がでてくるような気がする。

さらに妄想はすすむ。
さて、「社会」ってやつはどうなんだろう?
これは、誰もが身をもって経験しているものだろう。
「型に嵌めて」そこから「自由にならなきゃ」となるのか、否か?
まず社会は、嫌でも教育により「型に嵌めよう」とする。
道徳、倫理、法律、作法、常識、文化、習わし、伝統etc
基本である。
おそらく基本を習得しないと「社会人」としては未熟なんだろう。
人間は社会的動物である以上、基本が未習熟ではその集団での社会人としては生きづらい。
もっとも実際は基本のほうがうるさすぎて、生きづらくもあるのだが。(基本にしがみつき型に拘るメンタリティは、別のベクトルなのかもしれない。)
それでも基本の習得したうえで「自分の個性で自由に生きる」となるのか。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
そうかもしれないだと、それは社会の基本に抵触しない「自由」でしかないではないか!! それが本当に自由といえるのか、自由になりたくないか〜、自由って一体なんだぁ〜、どうすりゃ自由になるかい?〜、、、おっと若干尾崎豊じみてきたが、尾崎が自由にたどり着けなかったとしたら、たしかに自由とは型を識り、型を越えるみたいなものかもしれないな。
社会の基本を識り、そこからの超越でなければ自由になれなかったのかもしれない。

とはいえ、それはどこまでも社会という枠のなかの自由ではないか。
そしてこの「社会の枠」というのは「写経の枠」「書道の枠」「クラッシクの枠」「写真の枠」「傾聴の枠」etcの上位にはられた強烈な枠なのだろう。

写経はないかもしれないけど、書道にしてもクラッシクetcにしてもそれぞれの枠を超越して成功者として「大家」とか「大御所」とか言われてもやはり「社会の枠」のなか。そも「成功」とは「社会の枠」のなかの言葉なのかもしれない。そんなふうに「社会の枠」に囚われているとするなら、まだ本当の自由ではないのかもしれなさそう。
たまに「社会」や「成功」を意に介さない人(もう芸術家という枠にも当てはめたくない人)がいるが、そうした人が本当の自由のなかに在ると言えるのだろうか?
風間塵が自由な世界観に達しているというのも「社会の枠」を越えているせいかもしれない。審査員のわだかまりも「社会の枠」という壁なのかもしれないな。奇しくもブッダが写経(の枠を越える)をどう言うか、なんて浮かんだのもこのあたりのことか。

社会の枠を越え仙人的な生き方をする、、、ということではなく、社会の基本を超越して社会に囚われないようにする、、ぐらいなら到達できるかもしれない。
それが写真の枠を越えた世界観によるか、傾聴の枠を越えた世界観によるか、そうした人生の何もかもによる世界観になるとは思うのだけど。

そこまでいけば「生きる」ってことが見えるのだろうか?


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