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音を楽しむ 「蜜蜂と遠雷」より

トタン屋根をたたく雨の音
草原を走る風の音
揺れる木々とセミの混声
海の碧い波の音
ドアの軋む音、米を洗う音……

きっと誰にもあったはずの遠い記憶。
暮らしをとりまく何もかもが音を楽のしめたはずなのに。
そんな音たちに合わせ好き好きに口ずさんでいたはずなのに。
口笛、草笛、いつしかピアノでさ、、
思うように感じるように音と戯れていたはずなのに。
いつしかそんな音たちを記録したくなっちゃたんだね。
いつでもいつまでも再現できるようにさ。
音符にして楽譜にして閉じ込めちゃった。
でもさいつしか再現することだけが大切になってしまったらしい。
もともとの雨の音も風の音も虫の音も波の音も忘れ去られてね。
ほんとはみんな子どものころ、野原を風といっしょに走った想い出を音に感じていたのに。
いつしかそんな音は裡なる小部屋にしまい込んで鍵をかけたんだね。

>胸の小部屋はますます神聖な場所となる。下手すると、自分でもその小部屋を開けること自体、めったになくなるし、普段はその存在をあえて忘れているようになる。(164p)

でもさ、ときどきに小部屋に鍵をかけない、
ちがうな小部屋なんてもはない天才が現れるのさ。
音にのって自由に野原を駆け巡り雨音のなかを散歩し、月まで飛べる天才が。
誰もが忘れちまった外を駆け巡る全ての音と遊べる天才がさ。
でもね、ほんとは天才でもなんでもないんだぜ、
だって思い出してご覧、誰もがちゃんと音と遊べんだからさ。
だれもが天才だったんだから。
そんなことみんな、誰も彼もが忘れたり鍵をかけたりしたけどさ。
小部屋を忘れることがあたりまえになっちゃった。
小部屋に潜めて許される解釈の範囲で奏でるのが価値があるんだからさ。
みんなてんでかってに楽しんじゃダメなんていわれてさ。
だから天才が音と遊びだすとみんな狼狽えるんだよ。
熱狂したり、拒絶したり、喜んだり、泣いたり、

>風間塵の演奏は、本人も忘れていたその小部屋を突然訪れ、いきなり乱暴に扉を開け放つ。それが、扉を開け放ってくれたことに感謝する熱狂か、いきなりプライベートルームの戸を開けやがって失礼なという拒絶かという、極端な反応になって顕れるのだ。(164p)

でも天才はやっぱり遠い昔、懐かしい子どもの頃に連れて行ってくれるんだ。
いつしか呼び覚まされるんだよね、全身の細胞で感じた風のなかの記憶が。
それぞれが、それぞれの風の中を踊っていた音たちが。
昔は感じるままにやっていたんだよ、ほんとに音を楽しむことをね。
技術や解釈や意味や再現やテーマ、音符や楽譜まで全部消え去ってさ。

>演奏者たちの中に、その自然は合った。彼らの故郷の風景や心象風景は、脳内に、視線の先に、十本の指先に、唇に、内蔵に蓄積されている。演奏しながら無意識のうちになぞっている記憶の中に、彼らの自然は存在していた。(222p)

>どこからかトタン屋根の雨のうまの足音が聞こえてきたような気がして、亜夜はハッと目を見開き、思わずきょろきょろと見回した。
不思議だった。
こんなにはっきり感じ取り、何もかもを把握していると感じることは初めてだった。「覚醒している」とは、こういう状態のことを言うのではないだろうか。(402p)

ボクたちはどれだけ長い時間、眠らされていたのだろう。
意味あるものだけに囲まれた都会のなかで。
きらめく感性を押し込めた小部屋のドアをしめたまま。
すべての音がメロディを奏でて踊りだす世界から目を反らせてさ。

なんてふうに「蜜蜂と遠雷」を読み終えたんだけど、ボクはまだ風の音を思い出せてない。
風の音に踊っていない……、そういえば最近、森へ行ってないな。
こんど行ったら、木々の音風の音小川の音鳥の音がピアノの音になって空に舞うだろうか?


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