「自分だけで死ねよ!!」を超越する
「自分だけで死ねよ」と新幹線のなかでおきた殺人事件が報じられたテレビに向かって言っていた。
言いながらそれを否定するものがボクの裡にあった。
ボクの裡なるそいつは言っている。
「おまえ、いつからそちら側の人間になったのだ」と。
“そちら側”とは殺された側。
そちら視線の理は社会の理である。
ボクは社会の理とは違う“こちら側”で生きてきたはずなのに。
「絶歌」を思い出す。
ボクは「絶歌」に綴られた言葉を称賛した。
殺された側よりも殺した側の言葉を。
殺された側の怒りを知り、解る、としながらも称賛をした。
称賛するボクは“そちら側”の理の多数に強く弱くバッシングを受けた。
“そちら側”の何人かは「絶歌」を読もうとさえしなかった。
“そちら側”からしか見ようとはしなかった。
ある晩、サイコパスの兄をもつ人の話を聞いていた。
その人は、生活に支障があるほど大変だといっていった。
ボクはその人の大変さに寄り添い、その人の視線で思いをつげた。
あとで同席していた別の人が、自分は「サイコパスの兄」の視線で話を聞いていた、とつぶやいた。
“そちら側”しか見えなかったボクは、カウンターパンチを受けたように打ちのめされた、気がした。
いつでもどこでも多くの人に、ホームレスは浮浪者、不労者と蔑まされ、人間扱いされない。罪人あつかいである。
罵詈雑言をきいても、ボクは何を考えることもなく、迷いも選択もなく“こちら側”にいる。
何も反論することもなく、可哀想な“そちら側”の多数をみつめている。
なんだろう。ボクのなかにある“こちら側”と“そちら側”は。
おそらく「識る」ことなんだろう。
「識らない」ときに“そちら側”に合わせる。
安易である。常識である。
考えなくてもいい、決まりきった多数なのだから。
ボクは、サイコパスの兄も新幹線の殺人者も識らない。
識ろうとしないままに、“そちら側”の罠に嵌ってしまった。
識れば、“こちら側”が解る。
深く深く識れば、“こちら側”でさえなく、ノーサイドとなる。
“そちら側”にいたままでは、識ることさえできない。
“こちら側”の視線をもたなければ誤る。
ノーサイドになるまで識らなければ見えないことがある。
これは傾聴にもいえることだろう。
2018.6.23に添えて
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