写真撮影的に聞いた庵野語録@「プロフェッショナル 庵野秀明」より

随分まえに放映された「プロフェッショナル庵野秀明」という番組録画をたてつづけに、しかも食い入るように3回も観てしまった。
やはり庵野は天才であり、凡才のワタシが感じるところの感覚が彼の発したところとは違うかもしれないが、それでも何かを感じてしまったので、メモ的に残して置きたいと思う。

と、そのまえにワタシの考える天才とは「それをせずにいられない」「それをするためだけに生きている(生きるためにそれをする、ではなく)」ということで、庵野の場合の「それ」はアニメによる表現だった。
他の天才は、たとえばクラゲを取り続けてノーベル賞をとった人とか、将棋だけをやり続けて人生何周したの?と思ってしまう青年や、野球だけとか音楽だけとか小説だけとか俳句だけとか、、それが出来なくなったら死んでしまう、とにかく、それだけに感性が反応して、人格がそれによって形成され、それをやり続けずにはいられないように、天から拘束されて生まれてきた人というイメージで、苦しいとか辛いとか関係なく踊り続けずにはいられない赤い靴的な人のわけ。実際にそれに絶望してしまえば生きることをやめ自死する天才も多い。逃げ道などないわけだ。
それ>命 ってやつだ。
もちろん有名でなくとも市井にいるだろう。
天才とこの世的な成功者というのとは全然別のものと思っている。
この世的な成功という目標があって目指すならそれは天才とは違う。
天才がそれをやめられず、やり続けてしまった結果、副次的にこの世的な成功者になってしまったということは多々あるだろう。
そうでなければ、天才個人など知りようがない。
でも、成功と騒いでいるのは周囲だけで、本人は成功を気にすることもそれを止めることはなく、黙々とやり続けている、という話はよく聞く。

それに対してワタシは、おそらくそれをやらなくても生きてるし、生きるがまずあるなかで、それをしている感じなので凡才。それが駄目でも、人間至るところに青山ありとかなんとかいっちゃって、あれを齧っては飽きたからこっちを齧るってかんじの凡才。
それでも凡才・天才と二分されるものではなく、グラデーションはあると思う。それでワタシの場合、微妙に天才側に振れているのが写真と傾聴だったの。あくまでの「それをせずにはいられない」と少しだけ感じるということとして。こんな年齢まで生きてしまったから、それができなくなったらもう死んでもいいかな、と思えるぐらいのグラデーション。
その程度で、天才の言葉に何かを感じるというのはおこがましいのかもしれないが、感じたのだから仕方ない。で、メモしておこうと思ったわけ。

設計図をつくらない。何をしたいのか最初に決めたがる。

「プロフェッショナル庵野秀明」より

天才といっても「それをせざるえない」だけで、最初から才能が満ち溢れてるわけでなく、試行錯誤しながら経験を積みながら独自の感覚で継続して追求していくのだろう。
それが証拠に野坂昭如も♪ソソソクラテスかプラントンか、ニニニーチェかサルトルか、みんな悩んで大きくなった〜♪と天才たちをこのように評してる。天才といえども悩んで経験して大きくなるのだ。
庵野だってエヴァを25年も作り続けて、最終作でこの結論に至った。
ざっくりしたストーリーだけで、絵コンテなんて設計図はつくらない。
設計図があってそれに従っていくのでは面白くない。おそらく設計書があれば最初に見通しがあれば安心だし、安全だろうが新しいものは生まれてこない、、というわけだ。設計書の枠を出ないという。
凡才であるワタシにも突き刺さったね。写真ならそのときどきの心に刺さる被写体は事前にきまってないし、どう撮りたいかも決めない。
心が動いたそのとき即興で演じるのだ。
そして庵野はこうとも言う。

やってみないと自分の考えている以上のものはでてこない。自分で考えられることなど面白くない。

「プロフェッショナル庵野秀明」より

まえの設計図と通じるのだが、自分で用意できる自分の考えられる範疇のことなど所詮限界があるのだ。もしくはもう既にやってしまっていることなのだ、というわけだ。
ここで庵野は、言葉とおりに自分の案は用意せずにスタッフに丸投げしてしまう。ただねぇ、スタッフが考え出したのに「無言」だったり、「なんか違う」なんて簡単に言ってしまうのさ。言われたスタッフもどこへ向かえばいいかもわからない。「だからどう違うってんだ」と言いたくなるところ、スタッフもそう言わずに考え直すわけで、、、まあ、スタッフも並じゃない。
ワタシのような「自然相手の写真」だと、自然が人智を超えたいくつもの顔を用意していてくれる。用意していてくれるというより、人間では想像もつかない表情が自然に在る。それを前もってこのように撮ろうなんて設計図や「考え」をもって臨むなんてことをすれば、新鮮でも面白くもない。
自分のバイアスを捨てて、というより自己を解放して身を委ねることで始めて写真が心象として表されるのかもしれない。
まあ凡人なので、その感覚もしれているかもしれないが、少しでも近づくことができれば面白いというものだ。

探るのはアングル

「プロフェッショナル庵野秀明」より

これは、アニメーションの表現のなかで具体的な手法を言っている部分。そのまま写真撮りのなかでもこれは気になるところ。具体的にどのアングルが一番「ピタリと」くるのか? 
下向きに咲く花を撮るときなど、根本に穴を掘ってでも90度真下から撮りたいってことを思うこともある。その花を中心に四方八方天地に360度考えれば、いや距離までふくめればアングル+距離で撮る位置は無限である。そのなかからベストのアングルを探っているうちに、花の奥、シベの付け根から見える外の風景まで撮りたくなってくる。被写体に対するアングルという固定観念から被写体のなかからという不可能なアングルまで観たくなる。
と考えていくと最初に具体的といったものの、庵野も具体的なアングルのことを言っているのではないかもしれない、とも思えてくる。
つまり視点を変えるということである。
アングルとは視点のことで無限にあるのだが、おうおうにして自らの設計図と思い込みとバイアスで視野狭窄になってしまう。この花はこのアングルが一番キレイだ、と決めてかかるわけだ。
そうなってくるとおそらく、他者の見方も価値観も思考も人生もすべて自己の内にある範囲で決めて身動きがとれなくなるだろう。視野探索中断は、人生の中断である。
庵野は天才だからアニメーションのことしか言ってないかもしれないが、結局つきつめれば、人のあり方の真理に向かっているのかもしれない。
すべての天才が、アニメでも将棋でも科学でも音楽でも小説でも、、そして写真でも、人間的なそれ(行為)をのりこえて真理に向かっているような気もする。

任せたほうがいい、そうしないと自分が全部になってしまう。自分の脳内にある世界で終わってしまう。エゴに対するアンチテーゼが必要なのだ。

「プロフェッショナル庵野秀明」より

庵野もほかの天才も全うな社会人とは言い難いところはあるよな。
非社会人っていうか非常識というか、、、
つまり殻を破り自己を解放させてしまうと社会人でなくなってしまうという面倒くささがつきまとうのだ。常識は規定の範疇なのだから。
庵野もこの番組の「プロフェッショナル」というタイトルで社会に縛ろうとしたNHKのやり方を全否定した。NHKのほうは「社会」という枠で放送したかったんだろうけど、
エヴァの身体のなかにある「装甲板」が外敵(社会)から身を護るものではなく、内から解放され現実を超越する自己(非社会)を抑え込むものだったようにね。
庵野は「枠組み」で拘束されるのを嫌ったのだ。
すべての殻を破らなければ自由にはなれないということを言い続けた。
とはいえ、社会的な番組が非社会を叫ぶ庵野を肯定しては自己矛盾に陥る。
なんとしてもプロフェッショナルの仕事の流儀にしたかった。
番組そのものが矛盾なのに。
アンチテーゼが暴れだしたときにジンテーゼしてアウフヘーベンされればいいのだけどね。そうはならないだろうし。

ワタシは凡庸な写真撮りであるので非社会まではならないだろう。
まだまだぜんぜん常識人の枠のなかでしかない。
それでも自己を規定することなく、解放するために写真を撮ることができればと思うし、自己を超越したい。そうした思いを身体の片隅に忘れずにもっていたいと思う。
社会と自らに縛られにいくことなく。

思い切りがなければ、おもしろくならない。

「プロフェッショナル庵野秀明」より

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