「人と自分を比べてもいい」と言われて考えてしまった…
人と自分を比べてもいい
というnoteを読んで、はたと考えこんでしまった。
表題の言葉は「他者と自分を比べなくてもいいよ」という「他者と自分を比べる」で追い込まれたメンタリティに対して愛に満ちた救済的な言葉がまたしても強迫観念をおび、そこから逃避するために、自己に根付いた「他者と比べる」に戻るという一周回った言葉のような気がする、笑。
なんとなく堂々巡りっぽい気がしなくもない。
そもそも人は「他者と自分を比べる」のがデフォルトなのだろう。
幼少より親からお隣の良子ちゃんと行儀や成績を比べられしているうちに、優位であることの楽しみを感じる。か、劣位であることに悩む。そのうち優位を目指して頑張るわけだ。学校ではテストや運動会で作文コンクールで比べられ育つ。受験で比べて、収入で比べる。車やらブランドバッグやお服、住んでいる街やらありとあらゆる持ち物で比べる。そして村自慢からはじまり、県民自慢、お国自慢大好きである。野球チームやサッカーチームの試合、ありとあらゆるスポーツからゲームから芸術まで比べる。自分に比べるものがなくなると、プロスポーツや将棋なんかで他者に代行してもらってまで比べる。
一喜一憂どころか、依存したり嫉妬したり殺人に走ったりまでする。
それが別に特殊な人々ではなく普通にあるかな?
「比べる」を自分の子どもをコマとしてやる、とかね。
とはいえ間違いなく「他者と比べる」はデフォルトであり、比べなくていいよ、は無理がある。比べられて劣れば苦しいが、そもデフォルトなので、比べなくていいなんて、そないに言われてもアンタどないせいちゅうねん、となるのがオチである。それが人情だろう。
「比べる」とはなんぞね?
比べるの先は「優劣」に囚われること。
そこを否定したまま「比べる」「比べなくていい」「やはり比べる」にはならないだろう。
優劣を肯定するから頑張る、頑張らないとなってしまう。
頑張るがいいことというのは優劣に囚われていることか?
こっちかもしれないな。
「優」で認められたい、というマズローでいうとこの「承認欲求」かな?
ところが優劣は虚構である。
決められたの価値観のうえの優るや劣るである。
価値観を決めるのに真理的根拠はない。
多数決か権力か、それともなんとなくでしかない。
自分が優位にたてることを価値と決めるヤツなんかよくいる。
そんな価値観のうえの優劣に振り回される。
優れれば、嬉しいかもしれない、、、優越に囚われる。
劣れば、苦しいかもしれない、、、悩みに囚われる?
いずれも、なかなか解放されないかもしれないな。
優位であれば自らしがみつき、劣位であっても縛られる。
優位者から「逃げるのか卑怯者」とか言われちゃったりして。
卑怯だよな、なんて自らも言っちゃったり。
優位にしてみれば「比べる」のだから劣位が逃げていなくなれば、優位もなくなる。逃げられては困る。
ところが劣位だったのが悔しかったりして、なにくそとか思っちゃうと、自ら囚われると、解放されるのが困難そうである。
自ら、気づきがあればいいのだが。
優れた者が「虚構の優」であることに気づき、虚しくなり、
劣った者が「虚構の劣」であることに気づき、悩みがどうでもよくなる。
(そうそう「悩む話し手」も「虚構の劣」に囚われていることが多い)
やがて、気づきがあれば「比べる」から解放される。
つまり「優劣」から解放される。
優劣がなくなり、試合やゲームをやったりみたりしなくなる。
コンテストに興味がなくなり、順位も知らない。
2番じゃダメなんですか?どころか、順位という発想がなくなる。
フォローやスキの「数」がどうでもよくなる、笑
マズローでいうとこの「自己実現@現実」かも。
と、いつしか「他者と比べる」とか「比べない」がどうでもよくなる。
やっぱり優劣の虚構に気づいた先の、その観念がなくなる。
やっとちょっとそういう感覚が解りはじめたかな。
そういえば最近、勝敗を争うスポーツとかゲームにめっきり興味がなくなったな。
あと、所有とかステイタスとかもさっぱり興味がなくなった。
好きでも嫌いでもなく、、そんなもの、という感じ。
「比べる」からも「優劣」からも解放されつつある。
そんなことを漏らすと、楽しみが無いじゃん、とか言われるが、そんなこともなく、まあまあ地味に楽しんでいる。
やっとこさなんだなぁ~、この感覚。
やっとこさなのに老い先は短い、テヘペロ^^;
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