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まず心が動き、それから写真で表す

「ちょっと、そこに立たれると鳥が寄ってこないのでどいてくれない」
朝、平和公園で背後から言われた。
一瞬うろたえながらも振り向くとバズーカ砲が見え、腐れ鳥屋の発言とわかった。
「何をオノレの都合で人に命令しとんだ、この糞“プーチン”ジジイがぁ」と
心のなかで叫び、無言で睨みつけ抗議し踵を返した。
これでワタシの休日は終わった。
怒り、それは休まる時間を台無しにするには十分だ。
それでも声に出さなかったのは良かったのかもしれない。
声にして叩きのめしていれば、休日どころか人格も終わっていた気がする。

今日はもうダメだ、家に帰りキノコ図鑑をながめていた。
なぜキノコ図鑑なのかというと、妙に安らぐからである。
しかも写真集に載せるキノコの写真の同定のために2冊も手元にある。
そのなかに今、旬のキノコを見つけた。
ツバキキンカクチャワンタケという茶碗のようなキノコである。
園芸種の椿の根本で、割に簡単に見つかるらしい。
ということで、近所のN公園に行った。
ツバキキンカクチャワンタケと会うためである。
公園にある椿1本づつの根本を探すが見つからない。
あきらめて帰ろうとしたとき、覗き込んだ椿の下に落ちた一輪がスポットライトに照らされているのが見えた。
地に顔をつけんばかりに覗き込んだ
あ、これだ、、、と感じた。

落椿に一筋の光

写真に撮りながら、何かを思い出していた。
なんでもないところの、なんでもないものに心が動かされる。
そんな心を磨いて、なんでもないものに反応したかったはずだった。
最近は、名のあるものを撮ろうとしていたな。
今回のツバキキンカクチャワンタケだってしかり。
目的をもって撮影をしていた。
心象ではなかった。
長いあいだ心が麻痺していたのかもしれない。
この椿と光をみつめながら何かを思い出していた。
なんでもないものに心が動くあの感じ。

影の葉に光さす
枯れ紫陽花に椿の花びらひとつ
なんでもない赤い実
黒い実
椿の蕾ひとつ
ピンクの梅

多分、「椿を撮る」ではなく、心が動いたものがたまたま「落椿に光」だったんだと思う。
心が動くが先にあったはずだ。
そして誰にも見えないもの、見向きもしないものを見出すことのできるワタシだけの感性、繊細な心を持ちたいと思った。
初心はこれだったはずなんだ。
だったはずなのだが、いつしか、「何(目標)を撮ってやろう」に変わっていってしまう。
そして目標に出会わず、目標が思い通りにならず、心がざわつく。苛立つ。
そうして、もう心象で感受することができなくなる。
何度でも繰り返してしまう、これまでも、おそらくこれからも。

ふと、朝の出来事がよみがえる。
プーチン鳥屋に怒りが向いたのも、ジジイの姿に自分をみたからかもしれない。撮ろう。撮ってやろう。目標をとってやろう、っていう慢心。奢り。

今、心が動いたからそれを表現したい、、、そんな写真を撮りたい。
心を動かすことができる初な感性を取り戻したい。



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