ボクたちは川の流れになって

♪ねえ君、二人でどこへいこうと勝手なんだが、川のある土地に行きたいと思ってたのさ…♪
 ボクはボーとしている時、どうも歌を口ずさむ癖があるらしい。この時もなんだか夏も終わりかな、と思わせる夕方の風に吹かれ矢田川の河川敷に細く舗装された小径で自転車のペダルを漕ぎながら口ずさんでいた。
 川の北の岸辺を三階橋のたもとから東へ向かって走る。3メートル前を小さな自転車で走るのは1週間前に補助輪がとれて、嬉しくて仕方のない息子だ。抜かしたり、抜かされたりする満面の笑顔と、嬉しそうにはしゃぐ声を聴きながら、煩わしいことは全て忘れて自転車を漕ぐのは、なんだかとても幸せな気分になる。タモをもって川に入る親子も、バーベキューで狂気の如く踊る若者も、草むらでサッカーをする少年達も軽快に後ろへ後ろへ過ぎて行く。
 そういえば、この子が生まれる前だったか、生まれたばかりの頃だったか、なんとなく夢見ていた風景が浮かぶ。一緒にキャッチボールをしたり、釣りをしたり…一緒に自転車に乗るっていうシーンもあったな。しんどかった子育てのなかすっかり忘れていた。そんなシーンがいま現実となった。ずっと夢をみていて実現したのではなく、いつのまにか実現していて、そんな夢を見ていたことを思い出したのだ。
 たかだか6年の子育てなのだが、なんだかとても感慨深い。特に子どもが3才くらい迄の苦労していた自分を思い出すと笑えてくる。随分大変だった気がするが、過ぎてしまえばどうってことないな。辛かった事も懐かしさで一杯だ。こんな気分になるのもやっぱり川のおかげかななんて、川面に映る魚の影をみつめながら自転車を漕いでいる。気がつくと千代田橋を越え、香流川との分岐点まできていた。随分来てしまったな。このまま、どこまでも走って行きたい衝動に駆られたものの、仕方なくUターンをした。

 復路は駄目だ。なんだかひたすら現実に向かっていくようで気が滅入る。これで三階橋まで戻ってしまったら、現実そのものだ。いかん、陰鬱な気分になってきた。まだUターンしたばかりだと言うのに。こんなマイナー思考が嫌な記憶まで呼び覚ました。
 今年の署名学習会の講演でのことだ。なんとなく退屈な講演が終わろうとしている。最後に講師が紹介したエピソードである。
 「3才のきょういち君は熱を出して母親に抱かれている。母親が仕事へ行く時間になると、きょういち君は『ママ、ボクはもうダイジョウブだから仕事にいってもいいよ』と言った」 講師は、働く親として勇気づけられるみたいな言葉とともに、美談として気色悪いほどの感情を込めて紹介していた。ワタシは、はあ~~~? これって美談か? きょういち君って大丈夫かよ? 3才児だぜ3才。と思ってしまった。そしてこれを美談として紹介する講師を疑う……漫画であれば背景と額に何本もの黒い墨の筋が垂れる描写をしたい。3才の子どもが自分の感情を押し殺ろしている。こんなこと言わせていいのかよ。しかも熱があってしんどいだろう子どもに。大人にとっていい子か? そんなもん美談でもなんでもないんじゃないか。保育園の朝の風景をみろよ。2才や3才の子どもが親と離れたくなくて泣き叫んでいるだろ。あれって、ちゃんと自分の感情を表すことができるっていう、とても大切なことじゃないのか? そんな子どもに対し親もちゃんと事情を言ったり、叱ったり、後ろ髪を引かれる思いを断ち切ったりする。そんなこと繰り返すうちに4才……5才になって「親が働いている」ことがおぼろげに解り、自分をコントロールするのではないか。5才になった子どもでもぐずったりすることもあるさ。そんな日は案の定、熱を出したりする。それを3才の病身の子どもがだな……、実際、親は仕事にいかなればならないとしてもだ……3才の子どもに意識させるのはおかしいだろ、と考えるのは間違っているのだろうか。

 駄目だ、ダメだ。せっかく川に来て、いい気分で自転車にのっているというのに、詰まらんことを思い出してしまった。無理矢理にでも楽しい妄想に耽らなければ……。
 うん、しかし川っていいよな、矢田川もいいけど、本当に好きなのはもっともっと上流の渓流と呼ばれるところまで遡った川だ。清らかな水の流れと大岩、周囲を木の枝と葉がたれ込めるまで遡る。そこにはアマゴという美しい魚がすむ。昔はよく、夜明けに合わせて、緑の間から漏れる朝の薄い光のなかで跳ねるアマゴに会いにいったのだが、子どもが生まれるとともに行けなくなったな。
 このアマゴという魚は上流にまとどまる個体(陸封型)と川を下り海に往って大きくなりまた卵を産むため川を遡る個体(降海型)がいる。後者のアマゴはふたたび川を遡るときはサツキマスと名前が変わる。どの個体が上流に留まって、どの個体が海に下るのかは解ってないらしい。一緒に孵った稚魚が、アマゴとサツキマスという、大きさも生涯も全く違う魚になるのだ。
 きれいなアマゴの魚体を思い浮かべながら、前でフラフラしながらも一生懸命自転車を漕ぐ息子をみて、ふと、海へ下る経験豊かなサツキマスであって欲しいな、と思った。 今は小さく力もなさそうだけど、一生懸命、川を下ろうとする小アマゴを想像すると、そう、親は「川の流れ」じゃないのだろうか、と思えて来る。卵から孵化した小アマゴが川に流れが有ることを知り「川の流れ」に包まれて下っていく。「川の流れ」も清流だったり、急流だったりする。ときに濁流のときもあるさ。小アマゴは「流れ」を横切って泳いだり、ちょっと「流れ」に逆らって泳いでみたりする。それでも「川が流れている限り」大きくなりながら海まで辿り着けるだろう。そう日々、海で泳ぐことの出来る力を蓄えつつ。海で生きていける体力と知恵をつけながら。いつの日か、海で鍛えられたサツキマスは卵を産むため「川の流れに逆らい」上流を目指し登っていく。上の上の自分たちが生まれたあの澄んだ水を目指して。力の限り登って親になる。卵を産み親になったサツキマスは、力尽き……、魚であることをやめ……「川の流れ」になるのかもしれない。
 そう、ボクたちは決して流れることをやめてはいけない。流れている限り腐ることはない……。

 しまった、まずいぞ。三階橋が見えて来た。ついに億劫な現実がそこまで迫ってきた。現実はどこまでも鬱陶しいものだ、それでも仕方がないな、また自然に流れるとするか。

ブログ「毒多の戯言」2008.7.31 よりサルベージ

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