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溺れるものは… @メタファ

必死で泳いでいる群れのなかで、
溺れている人がいる。
もちろんメタファである。
社会に溶け込みきれないときの、溶け込めない人のメタファ。
社会という水辺で溺れている。
溺れている、さてどうする。
メタファである、すぐに溺れ窒息死することはない。
選択肢はいくつかある。
泳ぎを覚えるか、溺れたままでいるか、いっそ溺れ沈んでみるか、、、
とりあえず、みな泳げるようになろうとする。
泳いでいる群れが自分よりはよく見えるからか?
群れのなかで溺れたままでは苦しい。
多少でも泳げれば少しは楽になるかも、
それでみな泳ごうとする。
泳ごうと一生懸命になる。
泳いで群れにはいることで安心する。
やがて、その水がどんな水なのかはみえなくなる。
もとより必死で泳いでいる群れと同じように。
荒波の海なのか、清く静かな泉なのか、汚水の池なのか、
井戸の中の水なのか、腐臭の沼なのか?
溺れてしまうのは、そこが汚水の池か腐臭の沼だからか、、、
泳ぐ能力のあるヤツは適応者という。
適応者は、汚水に染まって泳ぐことができる。
汚水の池でも、腐臭の沼のなかでもスイスイと。
そこが汚水か、腐臭水であることに気が付かず染まっていく。
適応できるというのははそうしたこと。
泳げるものは目を瞑り鼻を詰め耳を塞いで、
感覚を麻痺させあたかも当たり前のように泳ぐ。
そして泳ぎを誇る。
汚かろうが臭かろうが関係ない。感じない。
そんなことは問題ではない。
泳げることが問題なのだ。
なんとか泳ぎを覚え適応しようとする。
適応しきってしまえば、水をみなくて済むのだから。
見えなくなり、臭わなくなり楽になるのだから。

満員電車から押し込まれ押し出され……
「心を無にして通勤」するサラリーマンのように。
マニュアル以上のマニュアルを己に課し実行することで安心する……
「コンビニ人間」のように。

溺れているものは、羨望するか、真似をするか、教えをこうか、見つめて何をか思うか?

それでも溺れたままの人もいる。
はたして本当に溺れているのか。
わざと溺れているのか。
そうなんだ、溺れないと見えないことがあると識った。
たとえば水。
自分がどんな水で溺れているのか?
汚水か、腐臭水なのか?
なぜ溺れているのか?
泳ぎたくないのか?
泳げるようになれば、見えなくなると識っているから。
不適合者である。
でも不適合者になれたことは僥倖である。
思索するきっかけを得たのだから。
思索をしたなら、いつしか泳ごうとするだろう。
いつまでも溺れていては、汚水に目がやられ……
腐臭水に鼻がやられ、肌が爛れる。
やがて泳ぐ。
汚水で溺れないために泳ぐのではなく、他の水を目指して泳ぐ。
そうして泳ぐのは楽しい。
目指すは、湧き水の泉か、渓谷の流水か、エメラルドグリーンの入江か、
溺れなければ、解らなかった水、気づかなかった水。
やがて泳ぎついたとき、きっと澄んだ水に溶けることができる……
溶ける幸せを感じつつ。

もうひとつのこと……

汚水にやられて溺れる人の声を聴くことも幸せである。
聴くことで水に気づくことができるのだから。
共に泳ぐことができるのだから。

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