「いのちの深呼吸」と「青カン支援」
前のnoteで「いのちの深呼吸」の僧侶批判を繰り広げた・・・・
それはもしや同族嫌悪じゃね? とツッコまれて、条件反射でヤバっと感じたのでもう少し考えてみる、笑。
だいたい、「いいこと」と思えること(少なくとも絶賛の声がある)に対して執拗な批判をしているとこで、批判を繰り広げる自分を疑うのはオノレの課題としては見落としがちだな。などと、ツッコミに反応したのは、素直な感性な自分に好感がもてる。
また、僧侶がどうでもよければ放置でいいのだから、批判をするということは無関心でいられないという信号がでているに違いない。
なんやかんやいいながら、あの僧侶を結構好きなのかもな^^;、爆!!
で、ツッコミとしては昔ボクがやっていた青カン(ホームレス)支援と違わないんとちゃうやろか?ということで、青カン支援の話題も含めかれこれ16年ぐらいアレヤコレヤと対話してきた愚慫君がいうのだから、どこかそう感じるところがあるのだろう。冷静な他者目線は自分では気づかない視点なんで貴重だ。
で、あらためて比較してみると、やはりかなり違う気がする、笑。
僧侶は尾崎豊の歌的な青春時代を具現して、ある日とつぜん冷めて結婚して僧侶になり「死にたいという人を生きさせるため」の自殺予防運動を一人で始めた。必死で自分を犠牲にしながらやるという感じ。自殺予防運動の伏線になったのは自身の身近な3人の自殺という経験から、、なんとも辛く激しそうな運動である。映画であるので全ては描きだしてはないのだろうけど。
ボクは尾崎豊の歌的な社会への不満を裡にひめてはいたが、校舎の窓ガラスを割ることもなく盗んだバイクで走り出すこともなく、ダンスホールで孤独なダンサーに出会うこともなく、なんとなく【社会】にぶらさがって生きていた。そんななか好きだった娘が青カン支援の手伝いなんかを始めるので、単純で複雑な感情に引っ張れてその世界に乗り込む。その娘があっというまに支援を離れても、ボクはますますのめり込んだのは、そこに集う社会嫌いなヤツらが新鮮で楽しかったから。無意識に隠匿してきた社会への不満を言葉にできることも「青カン支援」とマッチしたところ。
死にそうななか「生きたい」という青カンのおっさんを「利用」することで、なにかにつけ社会にとってまともな連中と喧嘩をしてきたわけだ。不満のはけ口としては激しかった。
そんななかで、社会から棄てられた底辺をみたし、社会の底辺の人々のメンタリティもみたし、けっこう人は強いこともみたし、究極の断捨離理の強さもみたし、なんといっても「助け合う」ことを見たわけだ。それは物質的な助け合いであり、精神的な面もあるにはあったが、支援と当該は絶対同化しなかった。ベタベタせずに一線を引いていた。してはいけないという直感である。
支援行動自体は、必死で、ある意味、時間的精神的体力的に普段の生活に食い込んでしたが、犠牲にしているとは感じずむしろ普段の生活のほうがサブだった気がする。
青カンと仲間と他の支援者とが入り混じったアレコレが楽しかった。
結局は、ボクがいろいろ見えてきたりして、仲間と考え方の差異が限界に達し離れる。離れてから結婚し、子どもができてから保育運動などに首をツッコミ、、、、、今に至る、という感じ。
こうして比較してみるとやはり全く違う。
まず、ボクはホント楽しかった。社会に訴えるにあたり悲壮なふりはしたが、僧侶のようの悲壮さはなかった。
僧侶は支援対象を絶対になんとかしたい、と必死になっているが、ボクはわりに淡々としていた。青カンをみていてむしろ救われるべきは【社会人】のほうだろ?と解ってきた。
日々を生きている青カンをみていて、ま、死んだら死ぬときだったんだろ、と、さほど「生きる」にこだわらなくなってしまった。生きて青カンになるのか?青カンがいやで死ぬのか、、、嫌で自殺するヤツは青カン目線の風景をみることないんだろうなぁ、、、とふと思う。僧侶もまたその風景はみえてないんだろうなぁ、と感じるわけだ。
ボクのなかでは仲間がメインだった。対象の青カンはその次だった。
だからか、支援活動は僧侶のように一人ではできない。仲間がいてはじめてできた。
一人のできることはしれている。全体の解決にはならないし継続性がない。まあもっとも、どうあろうと「全体の解決」にはならないのだが、いずれにしろ一人では限界がある。僧侶が死ねば終わりである。あっという間の終了である。継続性のない運動は自己の満足でしかない。
それと、独善的になりやすい。これは夜回り先生の水谷さんのときも思ったのだが、オノレの正義しかない。仲間とは時間も役割も出来ることも「助け合う」、しかしそれ以上に対話し批判し喧嘩し言い合った。それが必要だと感じた。そうしたことが世代を越えても行われていくから「運動」は成り立つのではないか?と思う。一人では「助け合う」ことができない。一人でやるのは一人のヒーローの物語。
ってな運動論はどうでもいいか・・・・笑。
これだけ違う、でも「僧侶と青カン支援は一緒ではないか?」といわれて全否定はできない。
さて、なんだろう? 多分、あれだな、オノレの「正しさ」に近視眼になり、盲目になってしまうところ、、、「正しさ」など人の数だけあり、つまり「正しさ」などない。
オノレ(たち)設定の正しさが全てになり、そこにむかって突き進む。
そんなところは似ているかな。
今となっては、社会の矛盾も愚者の悪政も不平等も貧乏もどうでもよくなっている。
ボクが、ゆいいつ大切だと思うのは「助け合う」ことだけかもしれない。
それは一人ではできない。