「心の穴」って何?

とある夜、とある部屋、とある「ほぼ女子会」の片隅に座っていた。
「ほぼ」という言葉に誤解なきよう一応説明しておくと、ほぼ女子、ということではなく、圧倒多数の女子による圧倒多数の女子会話の会という意味。
途中なんとか口を挟んでみたのだけど、会話のスピードに圧倒され、雰囲気に圧倒され、さらにまずいことに酒と睡魔にも圧倒されてついに脳波が倒壊して、つまりはボーゼンとただ座っていた。
空虚??、、エンプティ?、、バニティ?? 穴、、、人、、だれもが、、心????、、、遠くから聞こえる。
何の話だろう? それにしても眠いぞ? 超絶睡魔だ。やばい、このまま、ほぼ女子、もとい女子多数のなかで眠り込んでは、、、、絶対にやばい。
ということで切れ間のない会話の0.1秒の隙間に割り込み挨拶をして退席した。そのまま部屋にもどり速攻寝入っていた。あと、10分遅れていたらその場で陶酔もとい倒睡していたに違いない、、間男、、やば、、、ギリギリセーフである。

翌日、ほぼ女子会に参加していたひとりの女子に聞かれた。
昨日の話のどう思った?
ん?なんのこと?
席立つ前の話?
ん?脳はほぼ眠っていたから解らないなぁ。
あぁ、どう思ったか、聞いてみたかったのに?
そうか、それはボクとしても話してみたいのだがどんな話題だったんだろう?
「(人はみな?)“心の穴”をもっていて、それを埋めるのは人との繋がりが必要」みたいな話。
「私は一人でもけっこういられるから、そう思わないのだけど、、、」と彼女は付け加えた。

地下鉄までの短い帰り道に歩きながら話したということで、彼女の質問もちゃんと確認できていない。「歩きながら話したから」というよりも、質問の「言葉」がよく解らず、その時にお応えすることはできなかった、、、
それで、いつかちゃんとお応えしたく、少し考えてみることにした。

彼女の言葉を正確にトレースできているか解らないうえに、ほぼ女子会ではなされていた会話はまったく解らない。
だから、あらたに

「“心の穴”を埋めるのは人との繋がりが必要」
「人はみな“心の穴”をもっている」

というセンテンスについて考えてみる。
つまり、ほぼ女子会での会話とも彼女の質問ともズレている可能性があることを断って、新たな提示としての思索であると、しておきます。

で、あらためて考えてみるのだけど、、さて??はて???
「心」の「穴」ねぇ。「埋める」ねぇ。
あらためてみても、やはり、そもそもの問いからして解らない。
それにしても、もし一般的に「心の穴」という表現が無言の前提で、理解しあえて会話が進んでいくとすると、それは、すごいなぁ、と思う。
現実には「心」という形あるものはなく、「穴」にいたってはもともと「ない」空間ではないか。
「ない」ものに「ない」のは、なにも「ない」となるのではないか?
それではいかにもおかしい。
というとことは「心」は「在る」という共通理解なんだな。
しかも、穴が空くということは、心は何かで詰まっている存在で、詰まっているものが逸失、喪失すると穴が空く、ということになるわけか。

・・と、こういうこと言い出すから、ワタシってヤツは「面倒な奴」なのだ。まぁ性分だから仕方ないし、面倒な奴ということは痛いほど自覚している。

正直にいえば、ワタシだって「心の穴」「心の穴を埋める」という文学的表現(もしかして慣用句?)は聞いたことがあり、それなりのイメージはもっている。
しかし自分に「心の穴」を感じたことが(多分)ないわけで、だから改めて聞かれると解らなくなるわけだ。
で、ワタシのイメージする「心の穴」「埋める」は、なにか自分にとって「大切な」もの、「大切な」こと、「大切な」人を「喪失」したときに悲しみや虚しささえ感じなくなってしまった、精神的安定をかいたり、自己や他者への関心、情動がなくなり、つまり「やる気」がなくなってしまう無気力、無関心、無味乾燥状態になる、、、ということでいいのだろうか?
「穴を埋める」とは、「穴が空いた」状態が、「良くない状態」「悪い状態」と受け止められて、そうした「良くない状態」「悪い状態」から脱するために喪失して「穴」になっている空間を新たに何かで「埋める」ことによって安定して「良い状態」に戻す。
と、こんなイメージでいいのかな?

もう少し面倒なコトを確認すると、そもそも「心」というのは、何かが一杯つまって安定しているものということなんだよな。
多分、経験とか感情とか意識とか好き嫌いとか自己で思ったり感じたり拠り所だったりする何もかも、、、、つまり「自我」とか「自意識」のことだと推測してみる。そいでもって、詰まっていて安定した状態が良い状態で、穴があいて不安定な状態はよくない状態なんだね。

さてさて、そんなことが前提としても、ワタシのように「心の穴」がピンとこない人だっていると思うぞよ。
そも穴を感知できるかどうかも問題だろう。
穴を感知できるから穴が空いていて不安定を感じるわけだが、穴を感知できなければ問題の前提から外れてしまう。
ワタシのような不感症は、感知能力に難点があるのかもしれず、「心の穴」??となってしまっているのだろうか?
それとも、意外ともともと「心」を埋めている「自我(意識や感情、経験や情動etc)」は弾力性のあるもので、穴が空いたとたんに他の自我内蔵物により埋まっちゃたり押し萎められたりする人も「心の穴」を感知できないのかもしれない。
それとか、もとより「心の穴」はあるのが当然で、それが安定した状態と感知していて、あらためて「心の穴が空く」ことを認知できない人もいるのではないか?
例えば「大切なもの」や「大切なこと」何より「大切な人」であっても、永遠に存在し自我の裡に映っているものではなく、喪失することが世の常であると普段から考えちゃっている人は「心の穴」が空かないのかもしれない。
いやいや、ときに「穴」を空けなければいけなく、けっして「穴が空く」ことが「悪い状態」じゃない、と考えている人とか、、、
もしくは「穴」も含めて自我だと思っていたり、たまには穴が空いた自我も好き!!、とか、、笑
自我とは観念であって虚像だから、そも、なにが穴だか、、、とか、、
あと、エイティピカル系の人はどうなんだろう?とか、、www

ってなことを考えていくと、結局は、問題の前提の前提として、「心の穴」を感知して、喪失感や虚無感や心の不安定を認知できて、さらにはその状態を嫌悪できる人への問題となるだろう。
「心」を自我、自己ということとして、自己のなかの「穴」を嫌悪できるということは、単純に「自己嫌悪」できる人のことかもしれない。
自己嫌悪というと、こんな自分は嫌いだ、ということだと思うのだけど、「穴を埋める」まで昇華することができれば、自分はこんなはずではない、こんな自分を変革したい、変革した自分を好きになりたい、となり「心の穴を埋める」は、「成長」と捉えることができる。「穴を埋める」つまり「成長」を実感できれば自然と自己が好きになり、もしかしたら「穴」を認知出来る人は「成長」できる余地のある人であり、それを自覚できれば、喪失感や虚無感を感じるどころか喜びをもって「穴」を許容することができそうだが、って、、、自我はそんな単純じゃないか、笑

いずれにしろ「穴を埋める」つまり「成長」をするのは人それぞれで、他者との繋がりのなかですることが得意な人もいれば、一人で思索したり行動したりするのが得意な人もいる。だから「他者との繋がり」か「一人でいる」のどちらかが正しいとか、どちらかを選択することではないだろう。おそらく実際には他者とかかわったり一人で思索したりが交互に行われているのだろうから、どっちが正しいということでもない気はする。

余談だけど、もしかしたら、喪失した「大切な人」によってできた「穴」を、何か代償(例えば他の人やものに)よって「穴を埋める」みたいなことの是非が話題になるときがあるかもしれないが、それが無意味なことは、おそらく誰でも知っているんだよね。
自我の成長(穴)に他者をそのまま入れることはできないしね。自己の成長はあくまで自己によってなされるものだし。
それとは別に、もし、「穴を埋める」こともなく喪失感や虚無感をいつまでも抱えている人がいるならば、「成長」したくない人だということかもしれないな。もしくは実は、喪失感や虚無感が好きだったりして。理想(妄想)が高く自我と乖離してすぎている可能性もあるが、結局は停滞が好きに違いない。

身も蓋もないことを行ってしまえば、単純に喪失感をなくすためには、ほっとけば喪失感も喪失されるわけで、人間それほど長く覚えているものではなく「心の穴」なんてものはそのうち「埋まる」ではなく、「忘れ去られ」て消えるわけで、いつまでも穴が消えない人は「喪失」したものに固執しているということだろう。
それこそ他者が何を言っても、何を動いても無理、自己にしか解決できないものです。

さてもう一つの
「人は皆“心の穴”をもっている」
である。

仮に誰もが「穴」をもっていても、認知、感知できなければ持っていないと同じことなんだろうな。「もっている」ということを敢えて言うということは、多くは認知、感知できてないということかもしれない。
先ほどの「心の穴を埋める」ことが「成長」だとするならば、成長する余白である部分(穴)は持っていると言っていいだろう。
心を埋める過去の内容物を喪失しつつ、穴を埋めることで成長するといえるかもしれない。
であれば、「穴」を認知、感知しているほうが、積極的「成長」できるかもしれない、という意味では「穴」があることを認識するのもいいのかもしれない。

こうしたことを言うとある話しを思い出す。
蝶は幼虫から蛹をへてがらりと変わる。
幼虫のときは葉っぱを齧る口をしているのに、蝶になると蜜を吸うストロー状の口になる。
あれは「齧る口」から「ストロー口」に変化するのではないらしい。
幼虫のときから成虫になる「部分」が潜んでいる。
で、成虫になるにあたって幼虫を構成していた細胞は一旦すべて捨て去られるらしい。
幼虫のときにヒッソリと隠れていた「部分」が萌芽して成虫へ成長するという。
幼虫のときには認知できなかった「部分」である。

蝶の成長と比較するのは乱暴な話しかもしれないが、もしかしたら、人には皆、心に認知できない「部分」(穴)があり、萌芽して成長するのかもしれない。ただそれまであった幼虫を構成する要素は蝶のように破棄されるのではなく、穴に包括されつつ成長し、さらなる成長のために新たな「部分」(穴)もまた生成されるとするなら「人はみな心に穴をもっている」ということにも頷ける。

なんてこじつけた、ちょっぴり「らしい」話しを付け加えて、彼女の気をひいておこう、彼女はきっと輝いた目でオイラを見つめるに違いない、、なんてメルヘンなんだろう、、ほんわり、うっとり、、、っちってね、爆!!


重要な追記

穴を忘却できない人、穴に固執する人、を「成長」したくない、とか「停滞が好き」なのかもしれないと書いたのだが、外部から無理やり「心の穴」を空けられた、というか「えぐられた」場合、それ以上「えぐられ」まいとして、現状の「心の穴」をキープすることで安定をはかるということはあるかもしれない。
強烈なトラウマなどにより、「穴」をもったまま心を閉ざす、といった状態です。
ここに至っては、自己修復は困難だろうと想像するし、「中途半端」な他者との繋がりではかえってシャッターの鍵の数が増える可能性もあるかもしれません。

「心の穴」を文学的表現としたところから、こうした精神医学的な状態と「心の穴」が即座に繋がりませんでした。

よろしければサポートお願いします