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「個性」を煽られる子どもたち@〈ふつうじゃない子〉のTBとして①

防虫缶あり、プシュー、、、じゃないや、忙中閑ありということでnoteを巡回していて、フォローさせていただいている大谷八千代さんの【ふつうじゃない子】「この物語の意見を聞かせてください」ってのを目にしてしまった。

大谷さんは、ワタシの写真集を買っていただき、丁寧な感想を頂いたうえに紹介までして頂いき、とても感謝をしている方である。
もちろん相談されれば、精一杯応えたいと思っている。思っている、思っていますよ。思ってちゃいるんですがね、、、、、なんだかメチャクチャ難しいテーマへのトライだなぁ、、、というので、考えてしまった。

アタシ自身が、空気を読まずに「みんないっしょ」的な同調圧力を唾棄しながら権威を叩き潰し、マイノリティでこそ真実が視えるのだ、と一抹の寂しさを噛み潰し、形式や儀式が大嫌いできれば野垂れ死にたいという、ふつうでないオヤジなのである。でも見た目はいたって「ふつう」なんだよな。もちろんイケメンでなく、かといっていうほど酷くもなく、中肉中背、穏やかで、心優しく(いかん、だんだん嘘混じりになってきた)……ああそうか、物語の「見た目やちょっとした性格がいろいろあって」という結びも、、、なんか、こう説得力がいまいちと感じたり、、、してるのかもしれないなぁ。

でも、いったい「ふつう」ってなんだ?ってなことは考えさせてくれる。
そうだ、そうえいば昔ブログ時代にもなんかあったよな、、と思い出し、とりあえず、そのエントリーをサルベージしとこっと思い立った。「ふつう」を考えさせられた本との出会いの記録である。

TBは②につづく、、、、かもしれない、^^;


〈以下、ブログ「毒多の戯言」2006.4.5(古!!、、また子どもたちの状況はかわってきているかもしれない。)よりさるサルベージ〉

「「個性」を煽られる子どもたち-親密圏の変容を考える」土井隆義著(岩波ブックレットNO633)

「いい歌」として、合唱や「みんなで歌おう」という場面でよく選曲されるSMAPの『世界で一つだけの花』。この歌を歌うことを躊躇させ、聞いたときに妙に白けさせてくれる本である。
 なんだかな、今の子どもたちの悲しくも納得のいく分析に出会ってしまった。子どもたちの「感性」は幼児のころからの発達に非常に関係すると思うので人ごとではないよなぁ。
 『世界で一つだけの花』なんかに代表されるように、社会から個性的(ONLY ONE)でなければ価値がないと煽られ子どもたちは、「個性的な自分であれ」という強迫観念に縛られているという。
 本来「個性的」であるというのは、社会のなか(他者との関係のなか)で自己研鑽し努力することで、「他者との比較において個性的な自分」になっていくものである。しかし今の子どもは、もともと生まれながら「自分は個性的なものを持って生まれて来て、いま自分が個性的でないのは、まだ個性的であるはずの自分の中のダイヤモンドの原石のようなものが発見されていない」と考えている、と分析されている。そして「個性的であるはずの自分を探す旅」は自己の内へ内へと向かっていくことになる。そこに他者は不在なのだ。繰り返すが、本来「個性的な自分」の確認は他者(=社会圏)のなかでされるものだが、今の子どもたちは「閉鎖された自己の内部」でしか検証しようとしない。当然検証できずに、結果いつまでたっても不確かなものとなる。「一人だけの世界では個性もへったくれもない」ということだな。
 そんな子どもは「自分を傷つけない、自分と表面的に合う仲間」(親密圏)との密接な関係をもつことで、個性的な自分を確認できない「不安定な自分」とのバランスをとっているらしい。グループはお互いに傷つけあわない非常に「優しい関係」で結ばされている。お互いに相手のなかに「自己」を見つめ、相手を傷つけることは自分を傷つけるという合わせ鏡のような関係から、相手を傷つけないように「優しい関係」を築くという。そこにある「優しさ」は本来的な相手のことを思いやった気遣いではない。つまり相手のなかにいる自分が傷つかないための優しさであり、「ナルシシズム」なのであるのだ。
 今の子どもたちの、自分の意見を断定しない「~みたいな」「私的には~」「っていうか~」という曖昧な言い方も、親密圏のなかで意見が食い違いを避け、気まづくならないための配慮であり、意見を闘わしてなお絆が強くなるといった本来的な友人関係ではない。自分が選んだ相手は自分の化身であり、その相手が傷つくことは即ち自己が傷つくことになるのだ。『ONLY ONEでありダイヤモンドの原石であるはずの自分が傷つくことは絶対に避けなければならない』という心理だ。
 こうした意識の集団である、外へ向かわない内向的かつ閉鎖的なナルシシズムグループはそのグループ(親密圏)以外の他者はまったく不要の存在となる。よって「オヤジ狩り」などの行為、「電車のなかで車座に座り大声で喋る」行為などは、もともと他者不在(他者という発想がない)という観念なかで行われているので、「オヤジ狩り」でいえば「オヤジは人間」でなく、「電車の車座」でいえば「迷惑を掛ける『他人がいる』」という発想がないのである。はっきり言って、電車のなかで車座で大声で喋ったり、化粧をしたり、着替えをしたりする子どもたちにとって、「まあ、最近の若いやつらは…」と舌打ちをするあなたは存在さえしていないのである。
 というようなことが切々と書かれている。親にとっては必読の書である。
 じゃ、読んでどう子育てをするかが、また問題なのであるが……


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