GACKTの言葉@「識るということ」

GACKTという人がいる。
どうやらミュージシャンらしいのだけど、ボクにとってはTV番組「格付け」(目隠しで高価な物と安価な物を当てる正月番組)の常連さんであり正解し続けるという人である。
キザで生意気でゴテゴテとした宝飾や豪邸はまったく受け付けられず、友人にもなれないだろうけど、多分GACKTがいなければ「格付け」も観ないだろうぐらいの存在になってきた。
そう、なんといっても正解し続けることに感心するのだ。
そんなGACKTが今年の「格付け」の前説で語ったことにじっと耳を傾けていた。
たとえばストラディバリウスの音を当てること、たとえば年代物のロマネコンティを当てること、、、etc
それは「当てる」ではなく、知っている、もとい、識っている、ということだった。
聴き心地がよい音、美味しい味は、人によって違う。
生育や経験、感覚が違うから当たり前である。
個々の感覚に頼ると間違える、というか解らない。
ストラディバリウスの音を識っているか?
年代物のロマネコンティの味を識っているか?
その音、その味に至る歴史や経緯、なぜその音なのか?なぜその味なのか?を識ることでであって、個々の好き嫌いではないのだ、と語った。
もちろん識っているうえで、識別できる感覚は必要なのだろう。
経験による感覚を体得したうえで、その音が聴こえる、その味がわかるということで「当たる」ではなく、「識別している」のだ。
もとより感覚が良い、感性がいい、ということではない。
識っているうえでの感性が鋭い、ということなのだろう。

もちろん、普通に生活する分にはそんな知識も識別も感覚も必要ない。
GACKT以外の解答者の間違い方を見ればわかる。
同様に多くの人は言うだろう。
それで何?だから何?と、
確かにそうかもしれない。
だいたい普通の生活をしていてストラディバリウスの音を聴く機会も、ましてや年代物のロマネコンティを口にする機会もない。
そんな音や味を識ってどうするの?と言われればそれまでである。
ところがGACKTにはもとよりそうした知識と感覚の体得にこだわりがある。とことんこだわっているのだ。
GACKTはそれを識りたい、楽しみたい、と貪欲に追求している。
それに比べて他の出演者は「当たった・外れた」ワッハッハなのだ。

ボクにしてもストラディバリウスやロマネコンティを識りたいとは思わない。が、このGACKTの態度には気付かされた、というよりも錆びついていたものを蘇えさせられた。
とことん追求するという態度を思い出させられた。
ボクにもとことん追求したいものがあるのだ。
それをしなくても普通の生活には問題ないだろう。
むしろ追求することで生活が困難になる可能性さえある。
追求はすればするほど多数から孤立する。
奇異の目でみられ、面倒なヤツだと思われる。
では多数に迎合して普通でいるか?
多数に受けいれられるぐらいのところで少し映えることを目指すか?
それはボクにとっては面白くも楽しくもない。
「識る」に到達して感覚を体得して、できればそこを超越したい。
おそらく超越までとどかず、体得できるまでも怪しげで、識ることのプロセスで死ぬかもしれない。
それでもやらないではいられない。
もう遅いという言い訳もしない。
やって死ぬ、としたい。

そんな態度で生きるという感覚を蘇らせてくれたGACKTには感謝する。


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