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㉑ミャンマーでのインターンシップ(マンダレーとバガン)

インターン先の素敵な女性とその女性の親友(@台湾勤務)の方と日本人3人でマンダレーとバガンに行ってきました。

もちろん同じ部屋に泊まったわけではありませんし、誤解を避けるために敢えてホテルも異なる所に泊まるという万全のスキャンダル対策です(私だけ安宿に泊まっていたというだけの話ですが…)。

旅行日程とコスト

旅行日程と大雑把なコストはこんな感じでした。

マンダレー

●7月15日(土)
12時30分ヤンゴン発→13時55分マンダレー着(MyanMar Airways107$)
Yadanar Theingi Hotel(1泊18$朝食付き個室)→マンダレーヒル→ウーベイン橋→ローカルレストラン(Shwe Let Yar Beer Station)→ローカル映画館(Myogon Yaung)

●7月16日(日)
旧王朝→(Nylon Icecream and Cold Drinks)→ダイヤモンドセンター(ショッピングモール)→マハムニ・パヤー→ザガインヒル→空港
17時35分マンダレー発→バガン18時5分着(Yadanarpon Airlines64$)
Royal Bagan Hotel(1泊で13$朝食付き5ベッド部屋)

バガン

●7月17日(月)
シュエサンドー・パヤー→シュエズィーゴン・パヤー→グービャウッジー寺院→アーナンダ―寺院→Sarabha2(昼ご飯中に市内停電)→ダヤマンヂー寺院→空港で素敵女性2人を見送り

マンダレーの感想

以下ザクッと感想です。

ヤンゴンの460万人に次ぐ人口120万人の第2の都市。空港は泊まった市内のホテルから南34キロに位置していて、いくらでもスペースがあるのに空港をもっと近くに作らない理由は謎。これは、途上国に限らずストックホルムでもアイスランドでも感じたことですが。。。
空港から市内への道路は整備されていてヤンゴン市内の道路より綺麗です。

(Yadanar Theingi Hotelの7階から)

マンダレーは中国の影響を色濃く受けていると事前評があり、中国の影響調査のために訪れたが、街中で中国人も見かけなければ中国語の看板も見かけませんでした。中華街に行きそびれたせいかもしれませんが、少なくとも中華街以外では中国の影響を感じたのはいつものOppo、Vivo、Huaweiの携帯の広告コンビだけでした(半月や満月の日は朝のマーケットが開催されないようで、ちょうど半月の日だったのでその影響で溢れんばかりの中国製品を見逃した可能性もあります)。

街中は想像したよりも発展してなく、20時には全ての店が閉じて暗闇になっていましたが(正確な場所は26~31st、82th~85thにかけて)、到着日の夜はやることがなくなったので、僕が以前ヤンゴンでローカル映画館に入った時に気になった(その時は私1人でミャンマー人が不思議そうな表情で僕を見ていたので見ませんでした)超ヒット作を21時30分から見始めました。タイトルは‟Original Gangster2“でもちろんローカル映画なので字幕もなくミャンマー語でしたが、見るからにB級やくざ映画でした。

しかし、会場内はほとんど満席で、カップルも沢山いて、ピスタチオの殻を割る音と食べる音と殻を投げる音に包まれていました。料金は1人260円です。ストーリーは単純で、やくざの一族の中の一派が独立して、一族内抗争を繰り広げるというもの。かなり残忍なシーンも多かったのですが、残忍なシーンに観客の笑いもあって笑いのツボもいまいち理解できませんでした。

⑲ミャンマーでのインターンシップ②(ヤンゴンから)で記載したミャンマーで考えたこと、感じたことの以下の部分を確認したかったため見てみたのですが、

マクロ経済概観
●現在のミャンマーの1人当たり名目GDPは1300ドルで、日本で言えば1967年水準。
●当時の日本は人口1億人、GDP1243億ドルで輸出額104億ドルのうちアメリカへの輸出が30%を占めた。
●この頃の日本は全共闘運動前の野蛮な状態(殺人者数は1955年の2119人をピークに67年に1395人へ減っていたが、暴力は日常茶飯事)。

経済水準からして暴力映画やアクション映画がしばらく流行る状況が続くと思います。映画の情景描写が現実の暴力に繋がらないといいと思いますが、夜の暴力映画+アルコールの効果によって起こるのが世の常だと思います。

マンダレーヒルやザガインヒルからの景色は圧巻でした。

(マンダレーヒルからの景色、お坊さんが絵になります)
(英語で2人から質問を受けまくるお坊さんを発見!!!本来であればこの女性の格好では僧院に入れません)
(2人でボードゲームに集中する子ども)

エーヤワディー川は流れが緩やかで川の中央に草の生えた浅瀬が多数存在するために少し幻想的。上流の大雨により水位が増しているようで、多くの貨物船が荷物や土砂を運んでいた。

ザガインヒルに行く際に通るエーヤワディー川にかかる2つの鉄橋の古い方は1934年にイギリスによって造られたもので、第二次世界大戦中(1942年)イギリスが日本の進撃を阻むために一部を破壊したが、1954年に修復されたという歴史があるようです。こんな所にも日本の戦争の面影が残っていると思うと不思議な気持ちになりました。

(ザガインヒルに行く際に通る新しい橋)

ザガインは仏教修行の中心地で仏教学校が密集している宗教都市だったためか、信心深くなれた気がしました。

2日間車をレンタルして、運転手兼ガイドもしてくれたKo Kolwinさんには大変御世話になりました。チェーズー ティン バーデ―(ありがとう)の気持ちを空港で伝えてマンダレーを後にしました。

(ウーベイン橋、世界最長の木造の歩道橋です)


バガンの感想

バガンは、カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥールと並ぶ仏教三大遺跡と呼ばれていて、2015年のゴールデンウィークに初めてミャンマーを訪れた時は、ヤンゴンからバガンへの飛行機の便が一杯だったため行けなかったという苦杯をなめました。

さて、今回のバガンの第一印象は、アンコールワットと異なりバカでかい遺跡があるという迫力もなく、12世紀の人類をもってすればこのぐらいのパガンであれば建設出来るかなというものです。

何の予習もなくバガンに行くと、「シュエサンドー・パヤーから見た日の出や日の入りが絶景だった」という薄いありがちな感想で終わってしまうと思います。しかし、侮ることなかれ、1つ1つの仏教遺跡を巡ると歴史の深みにはまることが出来ました。

「バガンは1044年にビルマ族による史上最初の統一王朝が開かれた砦、エーヤワディー側の岸に広がる乾いた平原に数千ともいわれる仏教建築物が点在し、幻想的な光景が見られる」というテンプレートの予備知識以外無く、事前に「地球の歩き方」さえも読まずにパゴダや寺院を回りました。

そんな前提知識無しの状態でも、1つ1つのパゴダが見せる全く異なる外見と内装は、この地に多くの歴史的な出来事と文化の交流があったことを想像させてくれました。「地球の歩き方」にバガンの仏教建築年代表が掲載されていますが、849年から1284年までバラエティの多さに度肝を抜かれます。

早速バガンのことを勉強しようと思い、タイトルで即買いした『謎の仏教王国パガン―碑文の秘めるビルマ千年史-NHKブックス-大野徹』にハッとさせられる表現があったので、それを引用します。

1962年から26年間続いたビルマ式社会主義を呼ばれるネーウィンの軍政、1988年から今日まで14年間続く現在の軍政、この2つの時期を合算すると、40年間の歳月となる。ビルマはこの間、武力を背景とする軍の支配下に置かれ続けてきた。軍政と国民との関係も、形を変えた絶対的支配者と「チュン(奴隷)」との関係に他ならない。西洋社会で芽生えた個人の権利や民主主義という概念は、現在の段階ではビルマに根付いてはいない。国家を構成する主体は国民なのだという考えは、「国家」という言葉の前では無力である。
パガン時代から今日まで続くもう1つの概念、それは「民族」である。パガン王国はビルマ族によって建国された。ビンヤ、ザカイン両王朝は系譜的にはシャン族の王朝ではあったものの、文化的にはビルマ族のそれであった。続くタウングー、ニャウンヤン、コンバウン3王朝もすべてビルマ族の国家であった。パガン時代以来陰に陽にビルマ族と拮抗してきたモン族は18世紀の中葉、アラウンパヤーによってその民族的エネルギーを完全に断たれた。「ビルマ」という国は、「ビルマ民族」の国家だという図式が出来上がった。
ところが、パガン時代からこの国で見られるもう1つの特徴は、イラワジ河流域およびその周辺地域には、非ビルマ系住民もまた割拠していたという事実である。この多民族を「ビルマ」という民族国家の中に包摂しなければならないところに、今日のミャンマーの苦悩がある。カレン族、モン族、シャン族、カチン族といった非ビルマ系住民は、1948年のビルマ独立前後から今日まで半世紀の長きにわたって分離独立を求める武装闘争を展開してきた。彼らの要求は国家の分裂をもたらすとして、軍政権はこれを弾圧してきた。
もともと47年に起草された憲法では、ビルマは連邦制国家とされ、ビルマ族が移住するイラワジ河平原の本州以外に、周辺の山地には、シャン州、カレン州、カヤー州、カチン州といった民族別の自治州が設置されていた。各州には州議会と州政府とが置かれ、外交、国防、金融といった重要事項以外について自治権が認められていた。
この連邦制という国家形態は、「ビルマ」という民族国家が多民族を包摂するための手段として考案された形態で、その主導者は独立直前の47年に暗殺されたアウンサン将軍であった。その連邦制は議会制民主主義の下で空洞化し始める。62年にネーウィン将軍がクーデターを敢行して政権を掌握したのは、この議会制民主主義を廃止するためであった。
ネーウィンは、ビルマ式社会主義という独自の目標を掲げ、それまで華僑やインド人たちが握っていた経済の実権をビルマ人の手に取り戻すことには成功した。しかし、連邦制という枠組みの中で多民族と包括していくという、アウンサン将軍の路線を充実発展させることには失敗した。州政府は骨抜きにされ、分離独立を求める少数民族の運動は激化した。その結果もたらされたものは、国家予算に占める国防費の異常な高さ、生産活動の停滞、輸出入の不均衡、極端な外貨不足、対外債務の増大、そして「世界最貧国(LLDC)」という国際社会における屈辱的な立場であった。1988年の民主化要求が国民的盛り上がりを見せたのは、そうした事情が背景にある。
88年の民主化運動の時には、民主主義とは「金の雨、銀の雨」を降らせるものだという見当外れの言葉が盛んに飛び交った。民主主義とは決して薔薇色の夢なのではなく、その本質は国民一人ひとりの政治的自覚に基づく責任ある行動なのであり、権利と同時に義務も伴っているということを国民に自覚させた上で、国民1人1人の意志を集約し、多数意見を国政に反映し、政策を実現させていく。そうした根本的な発想の転換、それが現在の軍事政権に要求される最大の政治課題だと言えよう。

『謎の仏教王国パガン―碑文の秘めるビルマ千年史-大野徹(P279-281終章 近代化に向けて)』


私がヤンゴンやバガンで不思議に思っていた数々の点が氷解しました。

先ほどのヤンゴンに中国系・インド系の人が少ないのはネーウィンの時代に強制排除をしたことが理由で、フィリピンやマレーシアと異なり、ビルマ人が経済の実権をコントロールできるようになったのが功績ですが、他方で連邦制という緩やかな帝国としての統治には失敗したという歴史を知りませんでした。


1000年前の11世紀からバガンでは多様な民族が割拠していたというのが、バガンの建造物を見るとわかります。こういったことが、現在のミャンマーにまでひと繋がりで脈々と続いているというのは、歴史の面白さです。


「バガンを通して、ミャンマーを知る」、私の大学時代のボランティアガイドサークル(Good Samaritan Club)の標語である「京都を通して、世界を知る」に似ています。懐かしい♪


歴史ある文化的建築物を通じて、感じること、考えること、いまに思いを馳せることは幸せなことだと感じます。それでは!!!


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