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本の紹介7冊目:「ゲンロン戦記」東浩紀(2021年の決意=誤配の創造者)

お疲れ様です。桐島です。今回は、2021年の決意表明をします♪

今回は、2020年12月発売の東浩紀さんの「ゲンロン戦記」の紹介です。
東さんと言えば、1971年生まれの進出気鋭の評論家として有名です。

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「動物化するポストモダン」

私が、最初に手に取った東さんの本は、2001年に出版された「動物化するポストモダン」でした。
エヴァンゲリオンのヒットの理由があまり理解できていなかった私に対して、この本は、ポストモダン社会では「大きな物語」が縮退するなかで、オタクたちがマンガやアニメやライトノベル等の作品を、物語として読むのではなくその構成アイテムを消費している、という特徴を教えてくれました。

「う、なんやて、難しい!」と思ったあなたは、仕方ありません。本書を読んでいただいた方が分かりやすいです (笑)

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「ゲンロン0 観光客の哲学」

そして、その後、しばらく東さんの本は読みませんでしたが、2017年4月の出版された「ゲンロン0 観光客の哲学」がたまたま、京都大学生協(ルネ)で目に留まり、2018年11月に購入しました。

たまたまというよりは、凄く高く積みあがっていたので、どうしても目が行ってしまう構造だったのですが、、、

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中身がぎっしり詰まった内容の濃い本でしたので、読み終えるのに時間がかかりましたが、たまたま職場で書評リレー(役所内で若手に対して、読書の機会を与えるための読書感想文)への寄稿を上司から依頼されたタイミングだったため、以下の紹介をしました。

書評リレー(「ゲンロン0 観光客の哲学」 東浩紀)2018年12月

京都市を訪れる人は年間何人になるだろうか。
答えは5000万人以上である。半年に1度京都を訪れる度に登る大文字山の頂上で、大文字山保全協会の会長さんが教えてくれた。私たちは、この5000万人の人たちを俗に「観光客」と呼ぶ。

京都にて、4年間ボランティアガイドサークルに所属したためか、「観光」という言葉には人知れず愛着がある。今年も毎年恒例のサークルのOP会に参加した。紅葉が未だ訪れを告げていない11月の初旬の四条烏丸の日航ホテルが舞台だった。サークル創設者(1961年設立)の細川恒さんから恒例の乾杯の挨拶があった。ビールの泡が消え果るのに十分な、悠久の時が過ぎるのを感じる。京都の時間感覚にしても長い挨拶だったが、「安保闘争の中で、全員が全員、アメリカ反対でも、安保反対でもなく、外国人に正しい日本を伝えるためにガイドをしなければいけないと思った」というくだりに強く共感した。

盛会のまま、三々五々に解散して、Air B&Bの布団で眠りについた翌朝は、おきまりの学生時代へのタイムスリップコース。一通りの観光を終えて、大学生協の1階の書籍コーナーに到達。そして、山積みの本に気を取られた。「ゲンロン0 観光客の哲学」と記載がある。外国人「観光客」を4年間案内してきた身としては、気になるタイトル。観光客に哲学もへったくれもないのではという疑問が自然と湧く。学生時代に世界20か国以上観光したが、そこにあったのは、とある国に対する漠然とした興味のみで、哲学が介在する余地は一切なかった。

「世界はいま、かつてなく観光客に満たされ始めている。20世紀が戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるのかもしれない。だとすれば、哲学は観光について考えるべきだろう。本書の出発点には、まずはそんなあたりまえの感覚がある」というストレートな物言いに惹き込まれた。本書の狙いは、観光客をインバウンド戦略で増加させるような底の浅い商業主義ではなく、「他者こそは大事だ」という手垢のついたリベラルの主張を、「観光客」というキーワードを道具にして、捉えなおす再考だ。

いま読むには実に旬のテーマと感じた。政府は「2020年訪日外国人旅行者数4,000万人」を政策目標に掲げているが、過剰な観光客の増加による迷惑行為を指摘する声があがってきている。一方で、例えば、売り物の毛ガニを触る、池にお金を投げ入れる、といった行為は文化的差異に起因していたりする。今後5年間で35万人の労働者受け入れを予定している国の国民としては、手始めに「観光客」について考えることは時宜を得ているだろう。

本書の結論部分を先取りすれば、21世紀の世界の特徴は二層構造(政治・経済、ナショナリズム・グローバリズム、国民国家・帝国)のため、その二層をつなぎ、誤配の可能性を増す「観光客」の重要性が増している(第1部)、「観光客」が依拠すべき新しいアイデンティティは国家と共同体の間の「家族」(第2部)というものだ。(※誤配とは、予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態。例:普段美術に興味のない人でもイタリアに行くと、ウフィツィ美術館に行く)

結論のみでは余計な混乱を招くであろう。それもそのはず、この本の醍醐味は、結論部分ではない。この結論に至る過程で、哲学者/東浩紀ならではの論の運びで、螺旋階段を少しずつゆっくりと登っていくような旅を愉しむことができる。この階段の途中には登場人物が多い。トマス・クック、ルソー、ヴォルテール、カント、コジェーブ、シュミット、アーレント、ヘーゲル、ネグリ/ハート、と、普段聞きなれない哲学者が多数登場して、思考の補助線になってくれる(1度で理解できないため何度か読んでいる)。

どうやら、20世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来と位置付けてバカにしていたようだ。ヘーゲルは、家族でも市民でもなく国民になることでしか精神的な成熟はあり得ず、精神的には人間とは言えないと断言した。シュミットは、政治が存在しなければ人間は人間でなくなる、人間は人間である限り、国家・友・敵を作るのだから国家は必ず複数存在しなければならないと主張して、グローバリズムをはなから否定した。アーレントは、自活するための労働者を「労働する動物」として切り捨てた。現実と向き合わない知識人の態度により、人文学の影響力は今世紀に入り急速に衰えている。

このような人文学者にとっては世知辛い時代のなかで、東浩紀は、「観光客」という入口から私を非日常(旅)へと誘って、純粋に知的にたのしませてくれた。すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる。本書は、仕事術や政策立案とは一線を画していて、すぐに役立つ本ではない。しかし、21世紀の見通しをよくしてくれる本であることに、疑いの余地はない。京都での誤配=この本との出会い、に感謝の意を表して締めくくりとしたい。

大学時代に、京都でボランティア観光ガイドを4年間していましたが、観光客を哲学することは皆無だったので、自分の過去の経験と照らし合わせて、懐かしい思い出に浸りました。

閑話休題

「ゲンロン戦記」

前置きが長くなりましたが、本題の「ゲンロン戦記」の紹介に入ります。

本書は、東さんという哲学者が、会社をつくり、苦闘した10年の記録です。
哲学者というと、椅子に腰かけて、机上の空論を語るというイメージがありますが、東さんは行動する哲学者で、反資本主義で、反体制的で、オルタナティブな未来を提供するために、「ゲンロン」という会社をつくりました。

ゲンロンは、未来の出版と啓蒙は「知の観客」をつくることだと考えているようです。

いまの日本の知識人は信者ばかりを集めていて、論壇誌に寄稿したり記者会見を行ったり、派手なパフォーマンスばかりをして、特には炎上商法によりページレビューとリツイート数を稼いでいます。短期的なバズリは、長期的には何の価値も生み出さないというのは真実です。

あらゆる文化は観客なしには存在できず、良質の観客なしには育たず、「ゲンロン」の役目は、こういう「知の観客」を地道につくることのようです。

本書を手に取って、冒頭の箇所から、「うんうん、そうだなそうだな!」と惹き込まれてしまったので、引用します。

 株式会社ゲンロンは2010年4月に操業しました。ですから、ゲンロンの10年には2010年代がそのまま重なっています。この時代は、SNSが社会に大きな影響力を与えるようになりました。2010年代はSNSの10年ともいえます。日本においてとくに影響力が強いのはTwitterです。
 Twitterはアメリカで2006年に創業されました。日本語版が始まったのが2008年のことです。Facebookは2004年の創業で、日本語版の開始は同じく2008年になります。けれども、SNSが爆発的に普及するのは2010年代のことです。
 日本で2010年代の始まりを告げた象徴的な出来事は、2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故です。この出来事は日本でSNSを普及させる原動力になりました。Twitterは震災を機に一気に普及したことが知られています。それは政治の風景も変えていきました。震災後は原発再稼働に反対する官邸前でもが起こり、2010年代後半にはSEALDsのような新しいデモのかたちを生み出していきます。それらはSNSがなければ存在しなかったでしょう。
 世界的には、2010年末から11年にかけていわゆる「アラブの春」が起きましたが、そこでもSNSが大きな役割を果たしました。他方で、SNSは各国で人々の分断を生み出しました。2010年代後半には、イギリスでEU離脱が国民投票によって決まり(2016年)、アメリカではトランプ政権が誕生する(2017年)など、市民の分断を印象づける出来事が相次ぎます。その背後にSNSが引き起こす政治的分極化があったことはいまではよく知られています。2019年には香港の民主化デモが話題になりましたが、あの大規模化もSNSがなければ考えられません。いまでは、体制側も反体制側も、みながSNSで動員合戦を繰り返す状況になっています。
 SNSと民主主義が結びつくことには良い面が多くありました。けれども負の面もあった。その二面性が明らかになった10年でした。
 とりわけ問題なのは、SNSが普及するとともに、言論においても文化においてもまた政治においても、しっかりとした主張のうえで地道に読者や支持者を増やしていくよりも、いまこの瞬間に耳目を集める話題を打ち出して、有名人やスポーツ選手を使って「炎上させる」ほうが賢く有効だという風潮になっていったことです。そのような戦略は、短期的・局所的には有効かもしれませんが、長期的・全体的には確実に文化を貧しくしていきます。いま日本ではリベラル知識人と野党の影響力は地に堕ちていますが、その背景には、2010年代のあいだ、「その場かぎり」の政権批判を繰り返してきたことがあると思います。(P19~21)

2020年代から見ると、少し遠ざかって見える(忘れてしまいそうな)、
2010年代の特徴を描いています。SNSを利用した短期的志向は、社会全体にも影響を及ぼしていると日頃から感じます。

私の勤務している官庁でも、近年多くの若手が転職しています。自分がより活躍できるポジティブな転職なら大賛成、万々歳ですが、今の若手には、今の仕事が合わないのではないか、という不安や懸念から転職を考え始める人が多い印象を受けます。目の前の仕事の向き合わずに、逃げの姿勢になってしまう人もなかには見受けられるため、「もったいない」と思うことも多々あります。

仕事の日常においても、誰もが「すぐに売れたい、活躍したい!」と思う志向は健全でないという実感が湧きます。

それでは、特に印象的だったポイントを3つ記載していきます。

印象的な3つのポイント


1.30代の深い反省
 私自身も30代中盤に差し掛かりつつあるため、この箇所は非常に考えさせられました。30代からは何でもかんでも出来ないので、自分の可能性を徐々に閉ざしつつ、プロフェッショナルとして何が向いているかを選び取らなければいけない!ということを、この箇所から学びました。

役人は、与えられた仕事をこなしているだけで、それなりに忙しく、満足してそれに甘えてしまえがちな傾向があるため、注意しなければいけないと反省しました。以下に該当箇所を引用します。

 震災が起きたときぼくは39歳で、30代の自分を振り返っている時期でもありました。若くしてデビューしたはいいが、言論人として、哲学者として目標を見つけることができずにいる。若いひとたちと一緒になっても、結局どういう社会をつくりたいか、どういう仕事がしたいかが明確でない。そういう反省がありました。
 30代のぼくは、自分がなにをやりたいのかわかっていませんでした。だからひとから頼まれた仕事はけっこうなんでも引き受けていました。前述のように、大学でも教えたし、テレビにも出たし、小説も書いたし、アニメの原作までやりました。でも根本的に受け身でした。どれについても「やったらできそうだな」という感覚でした。大学にも残れそうだし、小説家にもなれそうだ。テレビで有名になったら政治家にだってなれるかもしれない。そんな感覚でいたわけです。
 でもそれは勘違いです。「やっていけそうだ」と思うことと、現実に実現することはまったくちがう。やるべきことを発見するというのは、ほかの選択肢を積極的に切る捨てることでもある。30代のぼくは、たんにそれが怖くてできなかった。臆病だったんです。だから「望めばなににでもなれる自分」を守るため、なにもかもできるふりをして選択肢を捨てずにいた。とても幼稚な話です。(P61、62)

2.仕事をひとに任せる
 この箇所は、腑に落ちました。役人の仕事はチームで仕事をしているので、上司になっていくにつれて、チームメイトがどういったタスクをしているか把握しなければなりません。そのためには、自分が周りの人のタスクの内容をある程度把握していなければいけない、という多少の重複と面倒さが生じるのです。この重要性について、改めて深く頷ける内容です。
以下に引用します。

 ぼくが当時、領収書を打ち込みフォルダをつくりながら考えていたのは、そのような「経営の身体」はデジタルの情報だけでは立ち上がりにくいということでした。紙の書類を印刷しフォルダにして書棚に入れると、情報がオフィスのなかで特定の場所を占めるので、全体が身体的に把握しやすい。
 それはお金の流れだけの話でなくて、そのときはじめてぼくは、ゲンロンの全体をしっかり掴むことができるようになったのだと思います。ゲンロンカフェだったら、このケーブルはどこにどうつながっていて、どんな意味があるケーブルか、配線レベルまでいちど完全に把握しました。業者の請求書も細かいものまですべて確認しました。面倒なことを人任せにせず、ゲンロンについてなら、なにを質問されても答えられる状態になりました。
 会社を経営するためには、いちどその段階を経ないとダメです。Xさん、Aさん、Bさんと続いたトラブルの原因は、結局のところ、ぼくが「仕事をひとに任せる」ということの意味がわかっていなかったことにある。仕事をひとに任せるためには、現場でいちどそれを経験しておかないといけない。そうでないと、なにを任せているのかもよくわからないまま、ただ任せるだけになってしまうからです。それはほんとうは任せているんじゃない。単純に見たくないものを見ないようにしているだけであり、面倒なことから目を逸らしているだけなんです。「任せる」ことと「目を逸らす」ことを根本的にちがう。こんな話は実務経験があるひとにとってはあたりまえだと思いますが、それまで大学や出版という特殊な空間にいたぼくには大きな発見だったわけです。(P81、82)

3.無駄なコミュニケーションの有用性 under コロナ禍
 最近、コロナ禍下で、面白い対話・会話が減ったと感じます。私は、休日も含めて数多くの勉強会を主催していますが、オンライン形式だと、ある程度時間が決まっていて、時間外の雑談が発生しにくいんです。やはり、オンラインではない会話の良さは、会話が盛り上がったら、その後にも会話を続けられることだと思います。
 例えば、大学で理想のゼミというのは、ゼミ時間内に議論が白熱し過ぎて終わらず、そのまま居酒屋になだれ込んで、「ああでもない、こうでもない」と言い合いをするセミだと思います。
 私は、大学時代は、そういう会話・議論ばかりしていたので、今のコロナ禍下で、時間外の雑談の学びが改めて滲み出ていると感じます。
 これを目指しているのが、ゲンロンカフェという事で、今回、ゲンロンカフェに並々ならぬ関心を持ちました。引用します。

 ゲンロンカフェは、そもそも開設までのプロセスが誤配に満ちたものだったし、つくられた空間も誤配に満ちています。
 言い換えれば、「無駄」なコミュニケーションが集積している場とも言えます。石田さんの初回講義は5時間を超えました。当然雑談だらけです。でもそれこそが、哲学に馴染みのないひとを哲学に引きずり込むフックになるのですね。ぼくはそういう雑談の時間をとても大切にしています。
 そんなぼくの感覚は時代に逆行するのかもしれません。いまは合理性や効率がとても大切にされている時代です。魅力的なわかりやすいスライドとともに、ファクトとエビデンスを提示し、社会問題を解決するスマートな提案を数分で話す。そういうコミュニケーションがもてはやされています。これは学問も政治も同じです。(中略)
 その精神はいまも若い世代には生き続けています。ぼくのひとまわり下の評論家、荻上チキさんがメインキャスターを務めるTBSのラジオ番組のキャッチフレーズに「知る→わかる→動かす」というものがありますが、あの言葉は、そのような合理的な精神のありかたをうまく表現しています。正しいことを知り、きちんと理解すれば、社会をいい方向に動かせるはずだという理想ですね。
 けれど、本書の冒頭で語ったように、ぼくはこの10年ですっかりそういう理想に対して懐疑的になってしまいました。震災後の日本で、「知る→わかる→動かす」のサイクルは機能したのか。トランプ大統領の誕生はどうか。あるいはコロナ禍下の現在の混乱はどうか。SNSで情報が増えれば増えるほどひとはフェイクニュースやポストトゥルースに飛びつくようになるし、「なにが合理的か」をめぐって非合理的な争いをするばかりです。そういう光景を見て、ぼくは「知る」と「わかる」と「動かす」だけではダメだと考えるようになりました。現実には世の中の問題は複雑で、長い歴史があったり利害関係が込み入っていたりして、「知れば知るほどわからなくなる」ことや「わかればわかるほど動けなくなる」ことが多い。その状況で問題を単純化して強引に社会を動かそうをすれば、かえって状況が悪くなることもある。ほんとうは、「知る」と「わかる」のあいだに、そして「わかる」と「動かす」のあいだに、「考える」というクッションが必要なのです。
 ゲンロンカフェが大事にしているのは、まさにこの「考える」という行為です。思考は誤配=雑談から生まれます。そして無駄な時間を必要とします。ひとはたいていの場合、まったく思いも寄らないことをきっかけに「考え」始める。そのきっかけは、ゲンロンカフェで3時間も4時間も経ったあとに登壇者が発した、何気ないひとことのようなものかもしれません。
 そういう無駄は、TEDふうの「スーパープレゼンテーション」からは、あるいはテレビやラジオのような時間単価が高いメディアからは原理的に弾かれてしまいます。合理的な情報伝達からこぼれ落ちる「考える」という行為のための場、それがゲンロンカフェなのです。(P111~114)

東さんのゲンロンカフェは、このコロナ禍下で、改めて見直されるべき場所ですね♪ コロナ前までは、こういった環境・機会を提供し易かった。しかし、実は、こういった環境・機会があること自体が、貴重だったことが今になって分かりました。

少し前に、長崎県佐世保市にある長崎県立大学という所で、1日目講義、2日目ゼミという形で、講座を担当させていただきました。
この講座は、こういった無駄なコミュニケーションの有用性を信じて、実践している先生によって担保されていました(ゼミで議論が白熱すれば、そのままスライドで居酒屋でずっと続けて誤配=雑談を大事にする信念がある)

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私のような部外者に講座を2日に渡って担当させて頂くというのは、非常に珍しいと思います(多くの地方の大学の先生は、そういったことはリスク、面倒だと捉えてしまったり、そもそも人脈が非常に限定的です)。

貴重な機会をいただいて、実質的に時間無制限で、講義後の質問はいくらでも受け付けて、議論をし尽くすことが出来ました。そして、学生にも満足いただけたと自負しています(勘違いだったらすみませんが( ゚Д゚)、その後も一部の学生からは質問頂いています、、、)

私にとっては、大学時代に学生寮に住んでいて、夜な夜な議論を闘わせて、眠りにつくという毎日でしたので、珍しくない経験でした。しかし、今の学生は、なかなか出会わない貴重な体験だと感じました。
尚更、コロナ禍下だと厳しいでしょう!

この大学の先生とも、私が役所に入って、東南アジアの勉強会を何度も主催していた際に、ひょんなことからお会いして、尊敬して頼りにさせて頂いていました。そして、大学にお招き頂きました。東さんの言う「誤配=雑談」から関係が生じたわけです。

コロナの真の敵は、ウイルスはもちろんですが、「誤配=雑談」を排除する雰囲気が出来上がることで、知や文化の醸成が阻害されてしまうことではないかと、私は強い危機感を抱いています。

独りよがりの危機感を抱いて終わることなく、今回の東さんとの本の出会い、長崎県立大学での講義のような、「誤配=雑談」の機会を意識的に作っていきます。これをもって、2021年の決意表明にしたいと思います。

See you soon.


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