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排外主義者の夢が叶った世界ー読書感想#30「あなたが私を竹槍で突き殺す前に」

李龍徳さん「あなたが私を竹槍で突き殺す前に」を読めてよかった。その衝撃は読後1日経っても生々しい。「排外主義者たちの夢は叶った」という圧倒的な描き出し。上塗りに上塗りが繰り返されるヘイト、ヘイト、ヘイト。その世界をひっくり返そうと計画する在日コリアンの若者の物語。炙り出された問題のひとつたりとも、光明が見えない。だからこそ読めてよかった。この世界が現実になり切る前に読めてよかった。


排外主義者たちの夢は叶った

素晴らしい書き出しは素晴らしい物語の入り口になる。本書はそれを証明しています。冒頭はこう始まる。

 排外主義者たちの夢は叶った。
 特別永住者の制度は廃止された。外国人への生活保護が明確に違法となった。公的文書での通名使用は禁止となった。ヘイトスピーチ解消法もまた廃され、高等学校の教科書からも「従軍慰安婦」や「強制連行」や「関東大震災朝鮮人虐殺事件」などの記述が消えた。パチンコ店は風営法改正により、韓国料理店や韓国食品店などは連日続く嫌がらせにより、多くが廃業に追い込まれた。両国の駐在大使がそれぞれ召喚されてから現在に至る。世論調査によると、韓国に悪感情を持つ日本国民は九割に近い。(p6)

排外主義者たちの夢は叶った。たったワンセンテンスで底抜けたディストピアが始まったことが告げられる。

「在日コリアンへのヘイトが完成した」という表現とは、全く異なる。それを排外主義者の夢が叶ったと表現できる語り手は、間違いなく「ヘイトを受ける側」に足場を置いている。排外主義者当人にも、傍観者のマジョリティにも、この一文は導き出せない。タイトルが思い起こされる。この物語は「竹槍」で「突き殺される側」の私が、「突き殺す側」のあなたを眼差している。

続くパラグラフで、排外主義者の夢が極めて具体的に叶ったことが記される。それは、現実世界で声高に叫ぶ人たちがいる一方、まだ実現していないあれこれだ。なんだかんだ実現しないだろうと目を背けているあれこれだ。それが表出した世界。現実とのリンクが明確だからこそ、物語に触れて冷や汗が出る。

主人公は在日コリアン3世の若者・柏木太一。この世界をひっくり返すある「計画」のために、仲間と接触し、協力者を探す。同時に、なぜこんな世界になったのかも徐々に明かされる。


内心の差別は差別か

本書は太一の革命的行為を追いかける物語だけど、その醍醐味は、道中の登場人物たちの語りにこそある。このディストピアで、虐げられる側の在日コリアンが積み重ねた過去、感じてきたこと。その中で差別にまつわる語りが目を引いた。

太一は「計画」のために、極右団体「帝國復古党」の青年に接触する。ここで「内心の差別は差別ではない」という太一の考えが明かされる。

 内心でしかない差別は差別ではない。サイコキネシスの不可能な人間には内心の動きだけでは他人を攻撃できないのだから。
 ここに、ある人間を仮定する。その人物が学校や職場において、家庭内において、ネットでの匿名発言においても、自分自身の差別心を外部世界にわずかでも漏らさないままでいるのだったら、それはもうまったく差別主義者とは言えない。たとえ電子書籍で密かに嫌韓本を買いあさって読みまくろうが、投票行動において他人に同調を強いることがなければどの党に一票入れようが、それはもちろん自由に決まっている。(中略)(p159)

実は、太一が利用しようとしている青年には知的な障害がある。その性質に付け入る自分を肯定したい気持ちがこの言説には垣間見える。そのずるさを抜きにして、太一の問い掛けは考えさせられる。差別とは何か。外部世界に発露しない差別意識は、差別ではないと言えるのか。

一方で、こんなシーンもある。太一がかつて所属していた青年会の仲間・朴梨花。梨花は完成したディストピア日本を飛び出し、韓国の片田舎で「元在日」の集団生活を試みる。その様子を発信するブログの中で、メンバーの父親が過去に経験した出来事として、次の話が出てくる。

 ついでながらスミのお父さまとお母さまが離婚されたのは、その愛の破綻ゆえではない。そのきっかけは、歯医者だった。
 定期的な検診のつもりでその歯医者を初めて訪れられたお父さまは、虫歯が見つかったとして、その日のうちに2本も抜歯された。高額な治療費を請求された。
 が、お父さまは何もそのお医者さんが差別者だと断じられたいのではない。そうではなくて、ひょっとしたらこれは差別的待遇をされたのではないか、という疑いや恐怖、それをどうしても抱いてしまうという環境に、お父さまはいよいよウンザリされたのだった。(p172)

定期検診で訪れた歯医者で、いきなり2本も抜歯された。これが差別意識の発露かは分からない。そもそも証明できない。だが、抜歯されたコリアンが「差別ではないか」と感じること。感じさせられること。それは間違いなく、内心に存在する差別意識が放つ「臭い」によって起きる現象だ。

でも、内心に踏み込むなんてできない。それ自体が許されざる行為である。答えがない。ただ暗い気持ちだけが残る問いはしかしながら、読者が投げかけられなくても、現に差別を受ける側の人間が抱いているものなんだ。


てめえらが1875年に始めたこと

本作はセリフも秀逸です。その切れ味は小説「GO」を思い起こす。太一の計画の仲間になる、格闘がひたすら強い尹信。彼が「新大久保戦争」と呼ばれる抗争に身を投じ、同じく武闘派の河東健らと相手のアジトを急襲したシーン。捕まえた相手と問答が始まる。

 「こんな虐待行為して、我々日本人はこの非道を絶対に忘れないぞ。何倍にもして返してやる。暴力の連鎖だ! おまえらが始めたことだからな」
 「ちげえよ」健は笑う。「てめえらが一八七五年に江華島で始めたことじゃねえか」(p233)

1875年の江華島事件(こうかとう事件、またはカンファド事件)は、日本の朝鮮侵略の契機となった武力衝突とされている。日本人排外主義者が、自らへの攻撃は倍になって返ってくるぞと脅した時、健は「そもそもこれは反撃なんだ」と鮮やかに切り返す。暴力の連鎖という言葉は、いつだって今ではなく過去から始まっていて、決して免罪符にはできない。

その直後のページでの問答もよい。

 「いや、違う違う! そう、この世界を人体に喩えるなら、マジョリティは血液だ。そ、そしてあんたらマイノリティは、ときにワクチンであったり、ウイルスであったり。ひどいときには白血病みたいに暴走もするけど、でもでも、それも世界のルーティンのあるべき姿か。あんたたちは世界の流れを、その流動性を、ときぞき騒がせる存在なんですよ、つまりは」
 「じゃあ俺はウイルスでいいや」河東健はハンマーを振り上げる。(p236)

人体に例えれば日本人は血液で在日コリアンは時にウイルスでありワクチンだと言われた時、「じゃあウイルスでいいや」と一顧だにしない。

実際には、もし人体で例えるなら、マジョリティが大量という意味で血液なら、マイノリティは膵臓や肝臓のはずだ。占める割合が小さくても、それが存在しなければ人体が機能しない。人体の例えなのに、相手を人体以外に設定するところに、排外主義者の差別心が透けて見える。健はあえて、そんなことは言わなかったんじゃないか。反論するのは馬鹿馬鹿しいし、仮にウイルスだと呼ばれても、ウイルスに「やめろ」と叫ぶ人間はさらに愚かしいという気持ちなんじゃないか。

まだまだ、クールなセリフがある。目を背けたくなる現実が描かれる。そして何より、「計画」の全貌と、その行く末はひたすらドライブ感がある。非常に強度がある物語だなと感じました。(河出書房新社、2020年3月30日初版)


次におすすめの本は

上間陽子さん「裸足で逃げる」(太田出版)です。こちらはノンフィクション。沖縄の夜の街で働く少女の話ですが、ひたすら「少女の側」に足場を置いている。その意味で、「あなたが〜」と共通する次元にあります。


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