物語への愛あふれる物語ーミニ読書感想「写字室の旅/闇の中の男」(ポール・オースターさん)
新潮文庫に収録されたポール・オースターさんの小説「写字室の旅/闇の中の男」(柴田元幸さん訳)を貪るように読んだ。オースター流の幻惑的な世界。今回はいずれも作中作が鍵となる。物語の中で物語が動く。物語の主人公が物語に揺さぶられ、人生が駆動する。オースターさんの物語への愛があふれる作品に感じられた。
文体のリズム、言い回し。「心はそれ自身の心を持っている」のように、口に出したくなるようなセンテンス。無性に惹きつけられる。
本書は「写字室の旅」と「闇の中の男」というそれぞれ200ページ程度の中編が一つになっている。訳者あとがきによると、それぞれ別の本として刊行されたけれど、実際には一対としての性質が強いという。
たしかに、両作品は似ている。どちらも、1人の高齢男性が孤独の中に閉じ込められている。そして、「写字室」では机の上に置かれた物語の原稿が、「闇の中」では男の空想の物語が作中作として展開される。
引用したのは、「闇の中」の文章。ここには、著者は、いやもっと言えばひとは、なぜ物語をつくるのかが書かれている。
それは闇を進むためだ。混沌とした世界をそれでも生きていくためだ。世の中は嫌なもので、だけど大切な誰かに幸せになってほしい。そんな思いを抱えて、なんとか生きるために、手がかりとなる言葉を探しているのだ。
「闇の中」の主人公は、娘と、その娘の子である孫娘が深い傷を負った状況にある。特に孫娘は、かつての交際相手をイラク戦争をきっかけに失い、そのショックから立ち直れずにいる。その傷は、主人公の心もえぐり取っている。だから深夜、眠れずに深く孤独な闇の中に沈殿している。
そんな主人公がどんな物語を紡ぐかといえば、それは9.11がなかった世界。だけれども、米国は内戦状態になり、ある男がその局面を変えるために殺人の密命を指示されるという話だ。
9.11をきっかけに生まれた現実の傷。9.11がなかったはずなのに起きた想像上の分断。内戦下を生きる男の行く末を夢想しながら、主人公は現実の痛みに向き合っていく。
それは物語を通じて希望に向かうという美談ではない。主人公も作中作の男も陰鬱の中に絡め取られている。しかし、それでもどこかに歩みが向かっている実感がある。「前進」があるのだ。
電車の中で本書を読むとつかの間、会社員としてあくせく働く現実からどこかに迷い込んだ気持ちになる。さらに作中作という「二重のドア」をくぐり、心は遠くに出かける。会社の最寄駅に着くと現実に戻る。でも物語に触れ、その余韻を手にした心はなんだかすこしほぐされた気持ちになる。
本書は正直暗い。でもなぜだか、元気が奪われる気がしない。この不思議な感覚こそが、オースター作品を読む醍醐味だ。
つながる本
作中作が鍵になる本で「読んでよかった」と噛み締めた一作としては伊坂幸太郎さんの「ペッパーズ・ゴースト」(朝日新聞出版)が思い浮かびました。こちらも陰がありながら、やわらかな余韻のある優しい作品です。
エンターテイメント、ミステリーとしてはアンソニー・ホロヴィッツさんの「カササギ殺人事件」(創元推理文庫)もおすすめ。作中作の作者が死亡し、実は殺人事件なのでは?と犯人探しを始める作品。
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