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ケアとは物語の上書きーミニ読書感想『利他・ケア・傷の倫理学』(近内悠太さん)

近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学』(晶文社、2024年3月30日初版発行)を、興味深く読みました。利他とケアと傷。この三つの言葉のうち「ケアとは何なのだろう」と考えたくて読みました。それは、物語を上書きすること。踊り疲れた人がそれでも舞台を降りないでいいよう、包摂の物語を紡ぐことだと教わりました。


本書の冒頭で提示されるケアの定義は、「他者が大切にするものを大切にする」というもの。これを出発点に、どこまで遠くまで行けるか、という試みとして読めます。読み進めていくと、定義は少しずつ書き換えられ、厚みを増していく。中盤では次のように改められます。

 ケアとは、他者に導かれて、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のことである、と。
(中略)
 私から始まるのではなく、他者に導かれる、ということは「他者に強く影響される」ということです。つまり、固執しない、あるいは固執できないということがケアの条件となります。

『利他・ケア・傷の倫理学』p99

ケアとは、他者に導かれるものである。そうであるべきものである。

この言葉が加わると「ケアはどうして、時に空回りしてしまうのか」という疑問がクリアになる。本書では「相手に喜ばれないプレゼント」のモチーフが示されます。一方で「お腹が空いた人に自分の顔をあげて感謝されるアンパンマン」が対比される。アンパンマンのようになれないのは、私たちのケアが相手が求めるものではなく、自分本位で行われることがあるからです。

定義の上書き。実は、これは本書終盤で示されるケアのあり方の示唆でもあります。それは、物語を書き換え、過去の痛みや過ち、傷を意味あるものにしていくこと。意味あるもの「だったことになる」と思えるような展開を用意することです。

「だったことになる」という契機が僕らに、「今私は確かに私の歴史を引き受けてここに生きている」という実感を与えてくれます。それは、単なる動物としての「生存」ではなく、私の生活あるいは生命を生きているという人間としての実感です。

『利他・ケア・傷の倫理学』p270

本書では、カフカの逸話がメタファーにされます。人形をなくして落ち込んでいる少女に、カフカは「実は私はその人形から手紙をもらっているんだよ。色々事情があったようだよ」と励ます。そして実際に、その手紙を創作したといいます。

人形をなくし、傷を抱えた少女。カフカは「なくした」という過ちの物語を「人形が自ら出ていった」という新しい物語に上書きする。そうして初めて、少女は喪失の痛みを引き受けられる。「歴史を引き受けてここに生きている」という実感が得られるというのは、そういうことです。

つまり「ケアとは何か」という問いは「どうすれば相手が苦しむ物語を違う形に紡ぎ直せるか」と置き換えられる。「実は◯◯だった」「意味あるものだったことになる」という可能性に、開いていけるか。それが本書に教わったことでした。

物語はどう書き換えられるのか。本書を読んでから、そのことをぐるぐる考えています。

それはちょうど「長期連載のマンガ」がメタファーとして使える気がしています。人気作は決まって、物語の途中で新しい概念が導入される。もちろん作者は織り込み済みで描いているのかもしれませんが、読者にとっては「聞いていないこと」。でも、そうやって物語が駆動すると、そのマンガはがぜん面白くなる。超サイヤ人の設定のないドラゴンボールは考えられない。「卍解」が出てきた時のBLEACHには興奮したし、「ゴムゴムの実」にあんな秘密が隠されていたなんて夢にも思わなかった。

マンガの予期せぬ展開、もっといえば後付け設定は、RPGゲームとは異なる。ゲームの主人公は着実に強くなる。戦闘を重ねればその分、経験値が増える。マンガはもっと自由に、強さの概念がひっくり返るような必殺技や新能力が出てくる。

矛盾をはらんで、予定調和を超えて、ある種、人生を生きる我々自身が物語に巻き込まれていく。ケアとは、主体的であり受動的な、そんな不思議な営みなのではないかと思考が広がりました。

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