ケアとは物語の上書きーミニ読書感想『利他・ケア・傷の倫理学』(近内悠太さん)
近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学』(晶文社、2024年3月30日初版発行)を、興味深く読みました。利他とケアと傷。この三つの言葉のうち「ケアとは何なのだろう」と考えたくて読みました。それは、物語を上書きすること。踊り疲れた人がそれでも舞台を降りないでいいよう、包摂の物語を紡ぐことだと教わりました。
本書の冒頭で提示されるケアの定義は、「他者が大切にするものを大切にする」というもの。これを出発点に、どこまで遠くまで行けるか、という試みとして読めます。読み進めていくと、定義は少しずつ書き換えられ、厚みを増していく。中盤では次のように改められます。
ケアとは、他者に導かれるものである。そうであるべきものである。
この言葉が加わると「ケアはどうして、時に空回りしてしまうのか」という疑問がクリアになる。本書では「相手に喜ばれないプレゼント」のモチーフが示されます。一方で「お腹が空いた人に自分の顔をあげて感謝されるアンパンマン」が対比される。アンパンマンのようになれないのは、私たちのケアが相手が求めるものではなく、自分本位で行われることがあるからです。
定義の上書き。実は、これは本書終盤で示されるケアのあり方の示唆でもあります。それは、物語を書き換え、過去の痛みや過ち、傷を意味あるものにしていくこと。意味あるもの「だったことになる」と思えるような展開を用意することです。
本書では、カフカの逸話がメタファーにされます。人形をなくして落ち込んでいる少女に、カフカは「実は私はその人形から手紙をもらっているんだよ。色々事情があったようだよ」と励ます。そして実際に、その手紙を創作したといいます。
人形をなくし、傷を抱えた少女。カフカは「なくした」という過ちの物語を「人形が自ら出ていった」という新しい物語に上書きする。そうして初めて、少女は喪失の痛みを引き受けられる。「歴史を引き受けてここに生きている」という実感が得られるというのは、そういうことです。
つまり「ケアとは何か」という問いは「どうすれば相手が苦しむ物語を違う形に紡ぎ直せるか」と置き換えられる。「実は◯◯だった」「意味あるものだったことになる」という可能性に、開いていけるか。それが本書に教わったことでした。
物語はどう書き換えられるのか。本書を読んでから、そのことをぐるぐる考えています。
それはちょうど「長期連載のマンガ」がメタファーとして使える気がしています。人気作は決まって、物語の途中で新しい概念が導入される。もちろん作者は織り込み済みで描いているのかもしれませんが、読者にとっては「聞いていないこと」。でも、そうやって物語が駆動すると、そのマンガはがぜん面白くなる。超サイヤ人の設定のないドラゴンボールは考えられない。「卍解」が出てきた時のBLEACHには興奮したし、「ゴムゴムの実」にあんな秘密が隠されていたなんて夢にも思わなかった。
マンガの予期せぬ展開、もっといえば後付け設定は、RPGゲームとは異なる。ゲームの主人公は着実に強くなる。戦闘を重ねればその分、経験値が増える。マンガはもっと自由に、強さの概念がひっくり返るような必殺技や新能力が出てくる。
矛盾をはらんで、予定調和を超えて、ある種、人生を生きる我々自身が物語に巻き込まれていく。ケアとは、主体的であり受動的な、そんな不思議な営みなのではないかと思考が広がりました。