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ポポーの実 干拓地に暮らしていた友人との思い出

 小学時代よく遊んだ友だちの家の庭に、ポポーの木があった。いまごろの季節には黄緑っぽい果実がたわわに実り、友だちのお祖父さんにごちそうしてもらったものだ。異国を思わせる癖のある味だったけれど、ほっぺたがとろけ落ちるほど甘くおいしかった。以来40年以上、口にしたことのない思い出の果物だ。
 友人の家は旧小高町の井田川にあった。かつて井田川浦(リンク先はPDFファイル)という潟があり、旧石神村(現南相馬市原町区)の土建業者、太田秋之助(後に県会議長、国会議員を歴任)らが大正末期から昭和初期にかけて干拓を進め、180町歩の水田をつくった。その干拓地に50軒ほどが移住してできた集落が井田川だ。八郎潟干拓で誕生した秋田県大潟村の小型版とでも言えばいいだろうか。
 入植者のうち近隣出身はわずかだったらしい。大部分は旧石城地方の元炭鉱労働者や中通りから新天地を求めてきた人々だという。そのひとり、友人の祖父はかなりの勉強家だったようで、座敷に上がると農業の専門書など難しそうな本がうずたかく積まれていた。そんな人だからか、様々な作物に挑戦しつつ、今も昔も珍しい、ポポーの木を植えてみたのかもしれない。
 海にほど近い友人の家から、さらに1キロほど奥の高台には、井田川神社(御祖[みおや]神社とも呼ぶ)があり、境内には田んぼを見下ろすように太田秋之助の銅像が建つ。一帯は三崎公園とも呼ばれていた。内陸なのに、浦に突き出た「岬」のような地形だったので「三崎」と名付けられたのだろう。母校、福浦小学校の遠足の行き先にもなっていた。
 ただ、干拓事業に命運を賭した太田が地元の偉人かといえば、そうでもない。前近代の資本家よろしく別の顔も併せ持っていた。猛烈な台風と防潮林を乗り越えた海水によって干拓地は洪水に襲われ、米の収量が激減したにもかかわらず、厳しく小作料を取り立てたり、手下を使って暴虐を働いたり……。
 これに怒った農民が小作争議に立ち上がり、裁判に訴える出来事もあった。小高から浪江を経て阿武隈山地を越え、川俣を通って福島市の裁判所まで20里の道のりを徒歩で行進し、道々支援者に迎えられたという記録も残っている。
 それから約80年、東日本大震災が起きた――。あの日まで井田川に暮らし、避難中だった旧友に偶然会ったら「もう戻んね」と言った。彼の実家跡の前を通ったらポポーの木も、なくなっていた。
(福島民友「みんゆう随想」第5回「ポポーの木」2019年10月1日付。写真は2014年、南相馬市小高区井田川の津波を被った干拓地の景色。実家の田んぼもある。干拓地を突っ切る道路は「学校道」と呼ばれていた。以前はもっと遠回りの道しかなかったのが干拓後、新しい道ができて小学校が近くなったので、こう呼ばれるようになったのだろう。干拓地は大潟村のほぼ100分の一の面積になる)

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