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小学生の頃

幼少期からバレエを習っていました。

小学二年生の頃、経済的に厳しくなり辞めることとなりました。バレエは楽しく通っていたのでとても残念でした。

平行してピアノも習っていました。こちらは先生が厳しく、あまり好きではありませんでしたが、結局中学二年生まで通いました。

習い始めの頃は電子ピアノだったのですが、ある時アップライトを買ってもらいました。幼い頃の記憶なので曖昧ですが、40万ほどだったようです。中古だとしても、それだけの金額をポンと出せたということは、その頃はまだ困窮していなかったのでしょうか。

小学校は私立に通い、低学年の頃は母の好みでフリフリのワンピースを着せられていました。ピアノにバレエを習わせ、「理想の女の子子育て」だったのかもしれません。学業面は特に厳しく、テストではどれだけ高得点をとっても誉められることはありませんでした。低学年の頃はまだ良かったのですが、凡庸な私は成績も平均程度で、母の理想からはどんどんとずれて行きました。

私には妹と弟がいるのですが、二人は公立へ通い、成績が悪くても何も言われることはありませんでした。妹はやんちゃ盛りで学校から呼び出しを受けたり、弟は引っ込み思案な性格からか不登校気味になりました。『順調』と言えるのは私だけだったのにも関わらず、いえ、もしかするとだからこそ余計に、多大な期待が私に偏り、スパルタ教育がプレッシャーとなっていました。

その分だけ言葉にして誉めてもらえたり、可愛がられていればまた違ったのかもしれませんが、増えるのは否定語ばかりでした。

可愛がられていたのは末っ子であり、男の子である弟でした。彼は見た目も三人のなかでいちばん可愛らしく、母の寵愛を一身に受けていました。

当時の母に対する思いは、『愛されたい』この一点に尽きます。

『女の子なのに』家事の手伝いをしないのは傲慢で、

『お姉ちゃんだから』弟の振る舞いに我慢して当然で、

満点をとれないのは『努力していない』私が怠慢で。

元来おっとりした性格の本の虫であった私は、否定され続けて更に物語の世界にのめり込んで行きました。

未だに、なぜ50だか40だかの答案を持った弟の隣で、95点の答案を持った私が叱られていたのかわかりません。年齢差があったとは言え、なぜ。人に怪我をさせたこともなく、毎日学校に通っていたのに、なぜ。

クラスの順位が良くても誉められた記憶がないのは、なぜなのか。

どうして、ああも兄弟の間で格差をつけたのか。どうして私は愛されなかったのか。

それでも、ひたむきに欲していたのは、母からの褒め言葉で、ハグでした。

小学生のわたしの世界は、まだ母でいっぱいで仕方なかった。

彼女が私に下した評価は『怠け者』でした。



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