キャンセルカルチャーをキャンセルするには?――対抗戦略の具体的検討
「温泉むすめ」の運営会社、株式会社エンバウンドがスポーツ文化ツーリズムアワードの受賞を辞退したというニュースが、インターネット上を駆け巡った。
温泉むすめは、5年前から地道に活動を続ける「温泉地」を美少女キャラクターに擬人化したメディアミックス作品であり、クリエイターや声優の方々の地道な努力もあって、少しずつ、各地の温泉事業者や観光協会とのコラボが進んできた、まさに「萌え興し」の理想型とも言える成果をあげてきた作品であった。
文化資源と観光地の融合による魅力発信という、まさに「アワード」の趣旨にふさわしい、優れた取組であった。なぜ、それが受賞辞退に追い込まれたのか。
発端は、またしてもフェミニスト運動家・仁藤氏による炎上扇動的なツイートだった。
問題となっていた「夜這い」などの表現は迅速に削除されたものの、「火元」であるフェミニスト活動家の仁藤氏は、攻撃の手を緩めない。「肉感がありセクシー」「はだけた制服」「頬の赤らみ」等々、萌え絵の技法とも言える作画内容にまでケチをつける始末で、これでは「萌え絵」そのものをキャンセルするまでは許さないとでも言わんばかりだ。
一方、「萌え絵憎し」で、フェミニストたちはいつものように一致団結、立憲民主党・共産党連合の選挙での敗北や、米山氏・室井氏との批判の応酬で発生していた分裂は、あっという間に修復されていった。
コンテンツを燃やされた側は、疲労の色が濃い。
いくら反論しても、キャンセルカルチャーの担い手たるフェミニストや左派は、まともに議論や対話に応じる姿勢を見せないからだ。
クレームだけではない。関係する省庁や温泉地への嫌がらせ紛いの行為も相次ぎ、声優やクリエイターの方々へも「延焼」が発生。
燃やすだけ燃やし、キャンプファイアーの周りを踊って「社会運動」をする人々に対して、一見、言葉は無力に思われる。しびれを切らした「表現の自由擁護派」なかには、左派やフェミニストに対して、対抗でキャンセルを仕掛けようという動きさえ現れている。
これは白饅頭氏の有料noteであるが、必要な部分に限って引用したい。
対話に応じるつもりのないキャンセルカルチャーの担い手たちに対抗するためには、白饅頭氏が言うように、キャンセル・カルチャーをになってきたフェミニストや社会学者に対して、当てつけ的に「キャンセル」をぶつけるしかないのだろうか?
そのような「ミラーリング」あるいは報復攻撃しか手段は残されていないのだろうか。
本稿では、いよいよキャンセルカルチャーに対抗する具体的戦略について、ひとつひとつ事例を挙げながら、詳細に検討していきたいと思う。
いつもながら長いが、本稿は「炎上」によって被害を受けた当事者の話をしっかりと聞いた上で、私が出したひとつの結論である。どうか最後までお付き合いいただき、そのうえで、みなさんなりの答えを出していただければ幸いである。
戦略1 署名運動つまり「民主主義をやる」こと
去る9月、VTuber・戸定梨香氏が、フェミニスト議員連盟からの抗議行動により、交通安全の啓発PR動画が「キャンセル」されるという事件があった。
その事実を知ったその日のうちに、私は「抗議兼公開質問状」と題する文書を起草し、オタク議員として知られるおぎの区議と共同で、署名運動を開始した。
署名の呼びかけは瞬く間に広がり、令和3年11月末現在、7万1千筆に及ぶ賛同をいただくこととなった。
参考に言えば、7万1千筆という数字は、フェミニズム運動として大きな支持を集めたとされる「kutoo」の署名数の倍以上である。
どれほど多くの人々が、VTuber文化を愛し、戸定梨香氏を応援し、そしてそれらを踏みにじるキャンセルカルチャーに怒っているかが、明らかになったのだ。
フェミニスト議員連盟からの回答はいまだない(令和3年11月末現在)ものの、全国(あるいは全世界)から寄せられた「抗議兼公開質問状」への賛同の声は、多くのメディアを動かした。
署名運動が広がりを見せるにつれて、次第にメディアの取り上げ方は好意的なものとなり(これに対して、沈黙し続ける議連側へは、だんだんと批判的な意見が取り上げられるようになった)、それがさらに署名を増やすという、いわば好循環に入っていったのである。
そして、ついには、である。
行政が一度削除した動画を復旧させるということは、外部から想像するよりもはるかに難しい。その観点からいえば、「再起用を示唆」というのは、行政としてはかなり踏み込んだ発言・対応であると言える。
多くの人々の応援の声が、行政をも動かしつつあるのだ。
さて、こうした「署名」という方法論は、一見すればあらゆる炎上事案に対して適用できる、便利な処方箋であるかのように見える。しかし、今回の署名が「成功」した背景には、いくつかの必要条件が存在したと思われるので、そのことを書いていきたい。
条件① 当事者が賛同している/積極的に発言していること
まず最も重要なのはこれだ。
フェミニスト議員連盟の抗議については、戸定梨香氏の所属事務所の社長である板倉節子氏が、はっきりと批判の意見を表明した。
そのうえで、署名運動の開始に当たって、署名の趣旨に賛成するコメントを表明されている。
これは非常に重要な要素だ。
当事者が署名運動のメッセージに賛成しており、かつ、署名運動というアクションを支持するものでなければ、署名は単なる独りよがりのものに終わってしまう。
その点で、反面教師として参照したいのが、アクティビストの石川優実氏らが発足させたOSFS運動だ。
オンラインでの誹謗中傷によって傷つけられた当事者を救うための運動として組織されたものであるにもかかわらず、誹謗中傷によって命を落とした被害者遺族の心を傷つけるようなことになっては、本末転倒というものだ。
当事者にちゃんと寄り添ったものになっているか? という点は、署名運動に限らず、あらゆる社会運動においてきわめて重要な要素であると言えるだろう。
条件② 署名運動に携わる「キーパーソン」の存在
署名文書を作成するだけであれば、私がしたように、ある程度、文章が書ける人間であれば誰でもすることができる。それこそ思い立ったらその日にchage.orgのサイトにログインして、思いの丈をぶちまければそれで完成だ。
しかし、それだけではまったく不十分だ。
なにかの社会的・政治的な運動を成功させるためには、点と点で存在している声を線として結びつけ、最後に面としての完成形(落としどころ)まで描ける人物、つまり「キーパーソン」が必要である。
今回の署名運動でいえば、おぎの区議だ。
当事者である板倉節子氏の「声」を、私が起草した署名文書という「声」と結びつけ、さらに、オタク議員集団の先生方という多くの賛同者の「声」に結びつけていった。
そして、表現の自由やオタク表現の問題に興味関心を持ってきた人々から見ても、「この人ならば自分たちの意見の代弁者として信頼できる」と思えるだけの思想と実績の持ち主であるからこそ、多くの人が自らの名前を預けてくれたのである。
「プロ」としてのキーパーソンが職業政治家であるとするならば、今回、おぎの区議はまさにプロとしての仕事を全うしたと言える。
しかも、おぎの区議の仕事はそこで終わりではない。
戸定梨香氏側の見解が全国のメディアに伝わるよう、絶妙のタイミングで自ら記者会見を開き、
さらに、親交のあるVTuberたちとのコラボ動画の実現や、自ら制作する選挙啓発動画への戸定氏の出演など、新しい活躍の場を用意することまでやってのけたのである。
まさに「オタク議員」の面目躍如と言えるだろう。
私たちは、こうしたプロの人々を一人でも多く政治の場に送り出す必要があるし、また、なにかの運動を行いたい、あるいは必要だと考える場合は、こうした人々の力が借りられるよう、普段からつながりを作っておく必要がある。
条件③ 明確かつ妥当な目的があること
署名運動というからには、なにかの目的を掲げ、それに対して賛同を求めていく必要がある。
当たり前だが、これはなかなか難しいことだ。
単に「炎上しているのがかわいそうだから、応援したい」というだけでは、署名運動にはならない。
今回の場合は、炎上をしかけた人々が「全国フェミニスト議員連盟」と明確であり、かつ、「議員」という肩書きを使って行っているということが非常に大きい。
議員という地位の特別さは、ざっくりいえば、「民意の代表者」であるということだ。
特に、「全国フェミニスト議員連盟」の名において抗議したからには、「女性の人権擁護を求める民意」の名代として批判したことになるのであり、「性犯罪を誘発する懸念」といったような無根拠なレッテルであったとしても、それは一定の重みをもったものとして社会的に受け止められるのである。
千葉県警の公式見解と一致していないとしても、当然、行政は民意に対して真摯に向き合う必要があるのだから、相応の対応をとることになる。
それが「政治」だ。
今回、戸定梨香氏は、「政治」で殴られたのだから、これとの戦いもまた、「政治」で行うことになる。
その意味で、今回、おぎの区議が署名代表となり、オタク議員集団の地方議員の先生方の賛同を迅速に集めたことは、非常に大きかった。少し荒っぽい物言いになるが、向こうが代紋を持ち出したのだからこちらも代紋で、というわけだ。
そして、単に全国フェミニスト議員連盟を批判するだけではなく、ちゃんと「対話」の呼びかけとしての「質問状」としたうえで、多数の署名を集め、攻撃的な言葉や誹謗中傷を諫めつつ、理性的・組織的な運動を行ったのである。
これはまさに「民主主義」の王道だ。
こうした運動の絵図がはっきりと描ける場合でなければ、署名は無目的な「ためにする」ものに堕しかねない。
さて。
こうした①~③の条件を具備する炎上事案というのは、そう多くはない。板倉社長のようにしっかりと声をあげていただける炎上の当事者はまれであるし、炎上させる側も、議連のようにわかりやすい組織が存在せず、ずるずると炎上が拡大するようなケースも多い。
法的手段を、という声もよく聞かれるが、これも同様だ。当事者を巻き込み、裁判まで起こすことができる事例というのは、やはり限られる。
裁判の結果として、炎上させられた側の損失が回復する場合ばかりではないし、その結果として、逆にイメージが悪化したり、本業に支障がでるようになってはやはり本末転倒である。
では、このような手段が取れない事案の場合は、ほかにどのような対抗手段があるのだろうか。
白饅頭氏が言うように、キャンセルカルチャーの担い手たちにキャンセル攻撃を食らわせるしかないのだろうか?
次は、戦略2として、「相互確証破壊」戦略を検証してみよう。
戦略2 相互確証破壊としての「キャンセルカルチャー返し」
一人のVTuberを救うために、瞬く間に7万筆の署名が集まる状況は、私たちに一つの確信をもたらす。
つまり、オタクという文化集団は、今や、社会でただただつまはじきにされるだけの、陰に潜む少数者ではないということだ。行政から地方の観光事業者まで、いまや公共セクターですらこうした文化の意義を認め、情報発信や魅力向上につなげようとしている。
そしてそのことを面白く思わない人々がいるからこそ、「キャンセル」の対象ともなりつつあるのだ。
今回の「温泉むすめ」の件で、面白いデータがある。
批判系ツイートの拡散数は全体のわずか8.6%に過ぎない。
仁藤氏側に立って温泉むすめを批判してきた人々はごく少数であり、その後に押し寄せた擁護的なツイート、「#温泉むすめありがとう」ハッシュタグに代表されるような応援のメッセージこそが圧倒的多数だったのだ。
逆に言えば、そのような圧倒的賛成の空気の中でも、ごく少数の「嫌悪者」が騒ぎ立てれば、多方面に迷惑をかけ、プレッシャーを与えて、キャンセルすることができてしまう、そのような構造が浮き彫りになったのだ。
ならば、である。
90%以上の圧倒的多数の側が、キャンセルカルチャーの担い手となればどうなるだろうか。
フェミニストや女性が愛好するコンテンツに対して、キャンセルをしかけ、「痛い目」にあわせてやればいいのではないか……そういう動きが出てくることは、確かに予想できる。
再び、白饅頭氏のnoteを引用しよう。
戸定梨香氏を救うための署名に動き、温泉むすめたちに温かな声を投げかけてきた人々の力と数が、「キャンセル・カルチャー」の担い手たるフェミニストや左派に向かえばどうなるか……白饅頭氏の指摘は慧眼である。
そして、その際に真っ先にやり玉に挙げられるであろう対象として、「BL系コンテンツ」だと予言する。
BL系コンテンツを燃やし、女性が好む様々なコンテンツに難癖をつけ、やがてフェミニストをアカデミアや政治の場から追い出すよう運動するオタク……そのようなおぞましい未来像が、白饅頭氏の卓越した筆力によって、まざまざと思い描かれている。
報復的なキャンセルカルチャーの利用に対して、白饅頭氏は慎重に、「キャンセルカルチャーは劇薬」であり、「それを使用すれば使用するほど「表現の自由」の実質性は損なわれ」るとも警鐘を鳴らしている。
だが、自分たちの愛した表現物や文化を攻撃する人々に一矢報いるためならば、そのような「劇薬」を用いてもかまわない……そう考える人がいたとしても、おかしくはない。ここまではいい。
しかし、残念ながら、白饅頭氏のこの予言書的noteは、たった一つ、致命的な誤りがある。
それは、報復的キャンセルカルチャーは、「相互確証破壊」にはならないということだ。
そもそも、相互確証破壊とはなにか。
BL系コンテンツへのキャンセルが、核兵器のようにフェミニストに致命的なダメージを与えることができるのであれば、キャンセルカルチャーの発動を思いとどまらせることにつながるだろう。
だが、考えてもみて欲しい。
炎上の担い手であるフェミニストや左派は、必ずしもBL系コンテンツの消費者ではない。
BL系コンテンツを燃やされることで、女性オタク兼フェミニストの一部の層を悲しませることはできるかもしれないが、そのことは、男性向けコンテンツへの炎上を思いとどまらせるどころか、報復的キャンセルの担い手たるオタク層への憎悪を燃え上がらせ、さらなる炎上へのモチベーションを与えるだけだ。
キャンセルカルチャーを批判する際に、「女性向けの表現物も対象になり得る」「BL系コンテンツが炎上する危険もある」と議論の中で反転可能性テストを促すならばそれは正当で論理的な思考実験だが、実際にコンテンツを燃やしてしまえば、もはや同じ穴のムジナと言うほかない。
まして、BL系コンテンツがいくら燃やされようが、インターネット上で炎上を先導している仁藤氏ら指導層にはなんの痛痒もないのである。
コンテンツへの愛も正義もなく、自らの運動のために無慈悲に表現を燃やし続けるバーサーカーにとって、「こちらもコンテンツを燃やすぞ」という脅しは、核兵器どころか打ち上げ花火ほどの威力もない。
どころか、女性オタクやBL系コンテンツの表現者といった、新しい敵を作り出し、フェミニストの炎上工作に人材を供給する効果しかないのである。
実際、「キャンセルカルチャー先進国」たる韓国ではどうなっているのだろうか。実例を見てみよう。
韓国では確かにBL表現がアンチフェミニストの「キャンセルカウンター」の対象になっているのは事実だ。しかし、そうしたBLへの攻撃は、フェミニストによるキャンセルカルチャーを沈静化するどころか、むしろ逆に、「女性嫌悪のあらわれ」だという文脈に回収され、フェミニストたちのモチベーションを高める結果にしかなっていないのである。
そして、男女対立が行き着くところまで行った結果、韓国社会は深刻な分断の渦中に陥っている。
フェミニストであるというだけで「カウンターキャンセル」の標的になるほどに盛り上がったとしても、フェミニストの勢力は衰えるどころか、政治力を増しつつあるのが現実だ。
そして、男女双方が炎上をしかけあった結果として、自由であるべき表現の空間は焼け野原になり、そこで焼かれてているのは、フェミニストでもアンチフェミニストでもなく、表現者なのだ。
以上の理由により、キャンセルカルチャーに対抗する戦略としての「相互確証破壊シナリオ」は、劇薬的であるというばかりではなく、まったく効果のない非現実的なものだと結論する。
では、どのような戦略が有効なのか。
最後に、戦略1より普遍的で、戦略2より現実的な、私たちがとるべきもう一つの戦略を紹介しよう。
戦略3 キャンセルカルチャーを克服する「新しい文化」の創出
原点に立ち返ろう。
キャンセルカルチャーが威力を持つのはなぜか。
それは、多数の人々の抗議の声、そこに込められた嫌悪や悪意にさらされることへの恐怖が、キャンセル側への「忖度」を発生させ、彼らの要求をしばしば通してしまうのである。
恐怖(テロル)を操って要求を通すという意味では、そこにあるのはテロリストの論理と変わらない。
だが、キャンセルカルチャー側も「言論の自由」を行使しているにすぎない以上、そこに対してキャンセルへの恐怖で対抗してしまっては、同じテロルの応報に陥るだけだ。
有効な解決策を考えるためには、実際に、炎上している当事者の話を聞くしかない。私はそう考えた。戸定梨香氏と板倉社長の場合は、毅然と真正面から全国フェミニスト議員連盟に反論するため、署名を行うことがひとつの答えだった。では、温泉むすめの場合はどうなのか?
私は「温泉むすめ」に携わる人々の思いを実際に聞くために、二度に渡って「有馬温泉」を訪問した。
遊んでいるだけのように見えるが(見えるかもしれないが)、この裏で、私はこの有馬温泉で業を営む人々の声を聞き、現地の状況を調査していたのである(本当です)(信じてください)。
有馬温泉で地道な調査を行った甲斐があって、当地の、ひいては温泉むすめと温泉地のコラボを仕掛けた、いわば「仕掛け人」の一人である、この問題のキーパーソンとも言える人物から、直接お話を聞くことができた。
その内容の全てを書くことはできないが、聞き取った内容の一部をここで書きたいと思う。
まず、「温泉むすめ」は最初から温泉地の公式キャラクターとして出発してきたわけではない。
株式会社エンバウンド、クリエイターや声優の地道な活動が、やがて温泉地の人々と結びつき、少しずつファンを獲得し、広がりをみせていったコンテンツだ。
そして、その「温泉むすめ」とはじめてコラボし、「特別観光大使」として公認キャラクターとした温泉地が、ここ、有馬温泉だった。
有馬温泉は日本を代表する、伝統のある温泉地である。
アニメキャラクターを使った町おこしが、最初から万人に支持されたわけではなかった。当初は半信半疑の関係者も多かったという。
だが、有馬温泉の活性化に本気で取り組む声優のひたむきな姿や、ファンの温かな応援によって、徐々に温泉地の関係者に受け入れられるようになっていった。
「お金をかけて広告を打てば、一時的にお客さんを呼ぶことはできますよ。でも、イベントに来ては掃除までしてくれる、そこまで有馬温泉を愛してくれる『ファン』の方を作ることができますか」
私の取材に対して、熱っぽく語ってくれたその声を私は忘れない。
「若い方々が、平日は一生懸命働いて、休日に全国の温泉地を巡ってくれて、温泉で元気になってまた次の日からがんばって仕事に取り組む。そういう人たちがたくさんいてくれることが、私は嬉しくてたまらないんです」
温泉地の人々は、もちろん、温泉むすめの炎上についてはしっかりと把握していた。アワードの辞退についても忸怩たる思い、複雑な事情があるようだった。
だが、それよりもはるかに強く、「#温泉むすめありがとう」のハッシュタグでつながった人々の応援の声のほうが現地に届いている。
炎上で表現が撤回されるとき、団体や企業の側は、フェミニストによるキャンセルへの恐怖で震えたり、反省したり、フェミニスト側の意見に同意して屈服したかのように見える。批判と苦情の声で、それよりも圧倒的多数であるはずの応援の声がかき消されたかのように思ってしまう。少なくとも、インターネットで外側から眺めている分にはそうだ。
しかし、現地の人のお話を聞けば、その印象は180度変わった。
インターネットで多くの人の挙げた応援の声はすべて現地に届いているし、支援の意味で各地の温泉に訪問した人々の思いはしっかりと伝わっている。
無駄ではなかったのだ。
アワード受賞辞退で全てがキャンセルされたかのように錯覚するかもしれないが、温泉むすめそのものは続いている。JAなんすんのキャンペーンも、キズナアイも、赤十字のアニメコラボも、そして戸定梨香氏の「挑戦」も、終わってなどいない。
もしキャンセルカルチャーとの戦いが、文化戦争だというのであれば、私たちがとれる手段は、キャンセルという「マイナス」の弾丸を対立者に打ち込むことだけではない。
SNSから応援の声を届けるだけではない。実際に消費することによって支援し、「プラス」を届ける戦略もまたありうるのだ。
キャンセルカルチャーが威力を持つのは、キャンセルによって経済的・社会的な損失が生じるという恐怖(テロル)が生じるからだ。
だが、キャンセルカルチャーによる恐怖が生じるたびに、消費者がしっかりと買い支え、キャンセルによる経済的損失以上に利益が出るとなれば、どうだろうか?
もちろん、キャンセルカルチャーの担い手たちによってぶつけられた、心ない言葉によって傷ついた関係者の心は、どれほど経済的利益が生まれたとしても、回復することはないだろう。
しかし、そこで発生する「売上」は人々の支援の表明でもある。決して心の傷が消えないとしても、同時に、支援する人々の声を届けることで、その行為は当事者たちに勇気を与えることにつながる。
もし、キャンセルカルチャーをぶつけても、キャンセルで生じる損失の何倍もの経済的利益が生じ、何十倍もの暖かな言葉が届けられるとすれば、どうだろうか。
キャンセルカルチャーが文化に与える影響は、少しずつ落ちていくだろう。
それは暴力で痛みを与えられない暴力団と同じであり、武器が錆びついた軍隊と同じだ。炎上に炎上で返すのではなく、火種に冷や水を浴びせていく、これはそのような戦略である。
非現実的だと思うだろうか? だが、これは現実に進行しつつある戦略だ。
「キャンセル」の対象となった多くの「萌え文化」が、フェミニストの意図とは逆に、キャンセルされる前の何倍にもなったファンたちの暖かい声援によって、力強く成長を遂げているのである。
資本主義の基本を思い出そう。
民主主義における投票のように、資本主義社会における「消費行動」は意見表明の手段だ。
消費行動によって、企業や団体に思いを伝え、社会を変えていく。
これはなにも、突飛な考えでも、目新しいものでもない。
「倫理的(エシカル)消費」という考え方がある。
これはいわば「オタク版・エシカル消費」だと言えるだろう。
森林を守るために森林保護に取り組む企業の製品を買い、発展途上国の貧困に対抗するためにフェアトレードな豆で入れたコーヒーを買う。それとまったく同じだ。
私たちの文化や自由な表現空間を踏みにじり、犯し、放火する人々に対して、私たちは同じ行為で対抗するのではなく、訪問し、楽しみ、応援するという「消費」でもって対抗するのだ。
これは完全に勝算のある戦いである。
すでに述べたように、炎上させようとしている人々は圧倒的少数派なのだから、1割の人々がキャンセルを行うよりも、9割の人々が積極的に購入したならば、トータルではプラスになる。小学生でもわかる簡単な算数だ。
まして、フェミニストは温泉地の主要な顧客でもなければ、松戸市に特別な貢献をしてきたわけでもないし、赤十字に積極的に献血をしていたわけでもないだろう。彼女らの「キャンセル」は実質的に何の意味も持たない。
ならば、私たちは逆をやればいいのだ。
フェミニストが何かをキャンセルしたとしても、そのキャンセルの何倍も応援と支援の消費が行われる。そのような文化を作り出し、定着させればいい。
キャンセルカルチャーの逆、差し詰め「エンカレッジ・カルチャー(応援文化)」とでも言えばいいだろうか。
確かに、短期的には効果が見えづらいかもしれないが、これが定着していくにつれて、キャンセルカルチャーの実効性を担保してきたテロル(恐怖)は無効化されていく。
これは、誰でも、明日からでも取り組める、簡単な戦略だ。
さあ、スマホを持って、温泉地に出かけよう。
素晴らしい温泉地の光景を撮影して、しっかりと消費し、楽しみ、その声を発信しよう。
それこそがキャンセルカルチャーをキャンセルするための、第一歩となるのだから。
結論 たったひとつの冴えたやりかた
白饅頭氏がnoteで指摘した「相互確証破壊」を望む人々は、確かに存在すると私は考える。
実際、日本のフェミニストは、韓国社会において「成功」したフェミニストの運動をフィーチャーしている可能性が高い。
例えば、小田急線の刺傷事件後に発生した「ポストイット(付箋)」によるメッセージ拡散の運動は、韓国における江南駅女性殺害事件をきっかけに発生したフェミニズム運動とそっくりだ。
男女の対立を深め、相互の攻撃を煽って、「相互確証破壊」などとうそぶけば、こうした運動には人員も資金も集まる。
こうして韓国では、政権中枢にまでフェミニスト運動家が食い込むこととなった。ある種の運動家からすれば、これは垂涎の展開であろう。
もちろん、この状況でほくそ笑むのはフェミニストだけではない。憎悪と対立は、アンチフェミニストも政治のスターダムへと押し上げた。
憎悪の連鎖による男女対立紅白運動会は、韓国社会全体を巻き込んで、政治の中心的アジェンダとして躍り出た。日本社会においても韓国社会をモデルケースとして、大衆の関心を集め、自らの政治活動やビジネスに利用したい人は多いだろう。
だが、表現物を無思慮に炎上させる人々も、相互確証破壊などといきり立つ人々にも、共通していることがある。当事者の視点をまったく欠いていることだ。
忘れてはならないのは、フェミとアンチフェミの相互確証破壊とやらのもとで、核の炎に焼かれているのは、まさに表現者であり、地域振興に取り組む当事者であり、そしてそれらを愛する全ての人々なのだということである。
彼らをお金や政治的利権のための「ごっこ遊び」の犠牲にしてはならない。
私たちの大切なオタク文化を守るためにも、そのような方法とははっきりと決別しよう。
そして、地道な「消費者運動」として、表現の自由とオタク文化を巡る運動を、再定義するのだ。
その方法論を地道に採り続けてきた団体のひとつが、「エンターテイメント表現の自由の会(AFEE・エーフィー)」だ。
こうした団体や政治家のみなさんの活動を支持しつつ、個別の炎上案件について、私たちは恐怖(テロル)で対抗するのではなく、正当な手段で地道に支援を積み上げていく必要がある。
つまり、政治的な圧力が発生したときは、当事者に寄り添い、プロの政治家の方々と連携しながら、署名運動などの「民主主義」で対抗するのであり、
クレームやコメントスクラムによるキャンセルで経済的損失への恐怖を使ってくるのであれば、私たちはエシカル消費という「資本主義」の論理で対抗していく必要がある。
この民主主義と資本主義の両方において、真正面から対抗する「消費者運動」こそが、長い目で見れば、自由な表現空間を保全する近道なのだ。
確かにこの方法はまだるっこしく、目に見える成果がなく、負け続けているように見えるかもしれない。
敵を設定し、炎上とキャンセルで社会的地位を失わせることができれば、スカッと爽快であろう。
けれどもそれは、実のところ、キャンセルカルチャーに与しているだけだ。
いかに地道で泥臭いようでも、正当な方法を一歩一歩着実に積み重ねていくことが、本当の意味での表現と文化を守る道につながっているのだ。
どれほど冴えないように見えても、これこそが、たったひとつの冴えたやり方である。
以上
青識亜論
補論① 白饅頭日誌:12月15日「キャンセル・カルチャーをどう克服するか?(怖い話つき)」への反論
白饅頭氏が、私のnote記事に言及したうえで、異なる方法論を提示する記事を発表されたため、これに対していくらかの反論とコメントをしたい。
私のエンカレッジカルチャー論に触れながら、白饅頭氏は言う。
さて、まずこの前提認識からして、私は疑っている。
確かに、応援する側には買ったり、クラウドファンディングに拠出するような費用が発生する。しかし、費用は単なる「コスト」ではないのだ。
例えば、温泉地に訪問すれば、旅費という費用は発生するが、それは温泉というサービスを受けるための対価にすぎない。温泉地を楽しめばそれは十分にペイする。
ほかのものも同じだ。なんすんみかんを応援の意味で買う人々は、美味しいみかんという十分な対価を受け取っている。そこに「応援(エンカレッジ)」という付加価値がさらに付与されているに過ぎない。
楽しんだ上で、応援する。二重の意味で、楽しく、面白いことなのだ。
ここは本稿でも述べたように、倫理的(エシカル)消費と同じことである。美味しいコーヒーを楽しむだけではなく、発展途上国の人々を支援する。同じ商品を買うのなら、環境に配慮したものを選ぶ。
私はこれを「せっかくだから」の精神と呼んでいる。
休日に時間が空いているし、旅費もあるのだから、「せっかくだから」有馬温泉に出かける。これだけでいい。
もし、十分な時間やお金といったリソースがないなら、そのように応援する人々の声をRTするだけでもいいのだ。支えたいコンテンツを楽しんでいる人々のさざ波を広げ、大きな波へと育てていくことが、「キャンセルカルチャーは恐ろしいもの」という人々の考え方を変えていく。
コンテンツをけなして炎上する人々よりも、はるかに多くの人々が応援しているという事実を形にしていくことが、エンカレッジ・カルチャーの定着の第一歩である。
特に、戸定梨香氏と温泉むすめたちの案件で目立ったのは、「描いて応援」の流れであった。
署名や消費といった前向きな「応援」の方向に流れが向いたことで、クリエイターの人々が大っぴらに筆を振るえる環境が整ったことが背景にあると言えるだろう。
もちろん、こうした絵師の人々は、応援のために仕方がなく、嫌々描いているわけではないだろう。「せっかくだから」応援のイラストを描く。こうした人々の尽力によって、「応援」はさらに盛り上がっていく。
好循環だ。
これに対して、「燃やす」側はどうだろうか?
白饅頭氏は、あたかもキャンセル側にはたいしたコストやリスクが存在していないように説いている。
だが、私はこれも疑わしいものだと思う。
確かに、表面的なコストは、白饅頭氏が指摘するように、RTボタンを押す指の労力だけであるように思われる。しかし、実はそこには見えないコストが存在しているのだ。
それは、熱心なフェミニストでもなければ、アンチフェミニストでもない、この問題をはたから見ている人々からの「信用」だ。
本文中でも引用したが、温泉むすめをめぐる一連の騒動の統計的な情報をもう一度見てみよう。
圧倒的に擁護・肯定側の賛同者のほうが多数であることがわかる。
そしてそれが明確に「署名」というかたちになって、全国フェミニスト議員連盟に届けられたのが戸定梨香氏の件だった。
それだけではない。クラスタリングデータからは、温泉むすめそのものを肯定・応援する声(肯定派)と、フェミニストの炎上行為に反論・批判する声(擁護派)がきわめて密接に結びつきながら、対抗するクラスタを巨大化させていることが視覚的にうかがえる。
ここまでの差がついた背景には、地方の町おこしに携わる人々やクリエイターといった当事者のプロダクトをただただ難癖をつけて燃やす側と、炎上から守り、応援しようとする側との「違い」が鮮明にあらわれたからだ。
対話に応じず、炎上させるだけさせ、燃え尽きたら次のものを燃やす。
一見、ノーコストに見える安直な炎上行為を積み重ねてきた「ツケ」が、この圧倒的な差異を生み出してしまったのだ。
当事者によりそい、応援の声を根気強くあげ、そして対立者と丁寧に議論・対話を重ねる姿勢を崩さない。
これはコストが大きいように見えて、情勢を変化させるための戦略としてはもっとも「コスパ」の良い、冴えた戦略なのだ。
逆に、「相互確証破壊」や「フェミニストを痛い目にあわす」ような戦略をとった場合にはどうなるだろうか?
自分の気に入らない表現者や、その人々が愛好する表現物(例えばBL表現とか)を炎上させ、「痛い目」に合わせる運動にシフトした場合、どのように情勢は変化するだろうか。
そのとき、はたから見たアンチフェミニストの姿は、どのように映るだろうか。
きっと、自分の嫌いな萌え絵を燃やすフェミニストと、大差ない集団になるだろう。そうなれば、ただの泥沼の消耗戦に陥るだけだ。
……もちろん、白饅頭氏もそのような戦略を取れと言っているわけではない。彼は次のように提言する。
さて、この白饅頭氏の提言それ自体については、私は特に反対ではない。
「無視こそが最良の対処法であるという合意形成」
これが最大のゴールであることについては論を待たない。
問題は、そのためにどうするのかという話なのであって、白饅頭氏の主張はなんの対案にもなってはいないのである。
応援・擁護する側が、それをやめて、無視を決め込めば問題は解決するのだろうか。
「無視すればいい」とだけ言って、肩をすくめる人々は、残念ながら、実際に表現者や地域おこしの現場に殺到し、実害さえ与えているキャンセルカルチャーに対抗するためにはものの役には立たない。
応援文化は籠城戦だ、と白饅頭氏はうそぶくが、いざ籠城戦の最中に「心頭滅却すれば火もまた涼し」などと言ってなにもしない人々が状況を好転させることはないだろう。
兵糧米の一粒でも運び込んだほうがよほどマシだ。
現場の人々の気持ちになって考えてみてほしい。
抗議と嫌悪の声が殺到しているときに、遠くから「無視こそが最良の対処法である」と説いて、なんの説得力があるだろうか?
「無視こそが最良の対処法」だということを「内外の利害関係者」が理解するためには、嫌悪よりも圧倒的な好きが存在し、キャンセルよりも圧倒的な応援の声があることを、実際に示すしかないのだ。
それを数でかたちにするのが署名であり、売上というかたちにするのが消費だ。そうした動きをSNSで盛り上げるだけでもいい。その声は必ず現地に届く。
戸定梨香氏を支える署名運動にしても、温泉むすめの件にしても、私は当事者の人々と実際に声を交わし、応援の声こそがもっとも当事者たちに「キャンセルを無視する」ための起爆剤になるのだ。
賢しらなネット軍師先生の「無視するのが最適策でござるぞ」という助言は誰の耳にも届かない。
これに至っては、何周遅れかとため息をつきたくなる。
もはや「表現の自由」という憲法上の自由権は、表現をめぐる諸問題の最前線の争点ではない。
児童ポルノ法改正問題の時代とはゲームのルールが変わっていることにそろそろ気づくべきだろう。
キャンセルによる「不利益」や、議員連盟による「政治的圧力」という手段を取ってきている以上、私たちの表現物の多様性や寛容な表現空間は、まさに本来それを補償してきたはずの資本主義と民主主義の論理をハックすることで脅かされるようになっているのだ。
表現の多様性を寿ぐ側の人々は、ハックされたものをさらにハックするという戦略の転換を迫られている。
資本主義と民主主義のルールの下で、私たちは「キャンセル」よりも「応援」が多数かつ優勢であることを示されなければならないのだ。
そのためには、キャンセルの対象となっている人々が、「無視」してもかまわないと思えるような文化環境を作っていく必要があるのであり、そこに至るまでの戦略こそが、「エンカレッジ・カルチャー」である。
さて、白饅頭氏は次のようにも言っている。
そう。
白饅頭氏のキャンセルを見て、「せっかくだから読んでみよう」と思った人々が多いからこそ、白饅頭氏の仕事は増えたのだ。
白饅頭氏の読者層は、(断言することはいささかはばかれるが、あえて言えば)その多くがフェミニストやリベラルを嫌っている人々だからこそ、黙って無視していても、彼らがそれほど熱狂的にキャンセルをするということが逆に評価につながり、その層からの「エンカレッジ」を期待することができた。
ちなみに、私も、一時購読を停止していた白饅頭氏のnoteについて、応援する意味も込めてせっかくなので購読を再開させていただいた。
これもある意味で、「買って応援」というやつだろう。
だが、一般の地域おこしやクリエイターの人々は白饅頭氏の状況とは違う。
普通、温泉地の事業者にせよ、ご当地VTuberの方にせよ、様々な地域の人々の声に囲まれながら仕事をしているのであって、その中にはオタクもいればフェミニストもいる。
嫌悪やクレームの声が届けば、それに配慮せざるを得ない普通の人々なのだ。不快感を少しでも減らし、快適な環境を作ろうと考えることは、なにも間違ったことではない。
「無視してもよい」
そう確信させるためには、不快を訴える声よりも、はるかに多くの人々の「好き」が背後に存在することを、目に見える形で伝えねばならないのだ。
キャンセルに動じる必要のない、圧倒的応援の声に囲まれている白饅頭氏は実に恵まれた環境にいることを思い出してほしい。
「スケジュールを今日までびっしりと埋め尽くす目の回るような忙しさ」の中では難しいかもしれないが、どうか、少し時間をとって、温泉地の人々や、御当地VTuber、そして地域で地道に町おこしに携わる人々の声に耳を傾ける時間をとってはもらえないだろうか。
地道に積み上げた反論と対話、応援の輪の重なりの向こう側に、ようやくすべての表現者が白饅頭氏のように「キャンセルなど無視すればよい」という確信を得られるのだ。
そのような文化環境を作り出すための方法論が、私の提唱する「たった一つの冴えたやり方」なのである。
手段と目的を転倒させてはならない。
以上
青識亜論