フェミ炎上にトドメを刺す「銀の弾丸」
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フェミ炎上にトドメを刺す「銀の弾丸」

2014年、『人工知能学会』の女性アンドロイドの表紙絵が炎上してから7年の月日が流れた。

碧志摩メグ、のうりん観光ポスター、キズナアイ氏NHK出演、ラブライブみかんポスター、そして宇崎ちゃん献血ポスター……。

今日まであまたの表現物が、フェミニストから「性差別表現」「環境型セクハラ」と燃やされ、炎上してきた。

だが、情勢は確実に変わりつつある。

表現物を愛する人々や、表現者、そして不当なバッシングに違和感を持った草の根の人々が、SNSを通じて声を上げ、炎上扇動をしてきたフェミニストたちに対して、強く批判をぶつけはじめたのである。

「逆炎上」の現象がそこかしこで見られるようになった。

この動きは、単に「男性」「オタク」たちにとどまらず、フェミニストが感情を代弁してきたはずの「女性」にさえ広がっている。

かつて「フェミニスト」であったトイアンナ氏は、次のように述べる。

 女性の人権は大事だ。Woman Lives Matter。ところでそのために、他の権利を制限するなら、とても慎重に議論されなければならない。女の人権が尊重されるべきなのと同様に、他の権利……たとえば表現の自由や、言及される女性の人権、そして男性の人権も同様に尊重されるべきであろう。

 そうでなければ、対等な地位と権力を求めながら、責任は負わない『子ども』になってしまう。それこそ、伝統的に保護されるべき、未熟な存在として扱われてしまうのだから。

男女に平等な権利をという、大元のフェミニズムの主張は、まだ意義と正当性を失っていないと私も思う。

女性の活躍に対して、日本社会はもっと開かれるべきだ。それは女性自身のためばかりではなく、才能のある女性による豊かなプロダクトを通じて、男性や社会全体の福祉も増進する、素晴らしいことだ。

だが、表現物や表現者に「差別」のレッテルを貼りつけて炎上させることが、フェミニズムのミッションの達成にとって、なんの意味があるのだろうか?

むしろ、男女の分断を加速させ、さらには女性の表現行為の選択肢を狭め、たかがポスターにさえ耐えられない脆弱な存在と女性を規定することによって、フェミニズムが当初掲げていた目標とは逆方向に向かっていないだろうか。

女性自身の自由や選択肢を狭める、「フェミニズム」など、なんの意味があるのだろうか。

それはフェミニズムという思想の誤用であるばかりか、本当に女性の自由のために戦ってきた、先達たちに対する侮辱でさえあるだろう。

こんな不毛な戦いは終わりにしよう。

本稿は、表現物のフェミ炎上を支えてきた「コア」となっている論理を打ち砕くことで、論争に決定的な終止符を与えるものである。

いつもながら少し長いが、最後までお付き合いいただきたい。



第1の弾丸:ステロタイプ表現は「差別」ではない

見出しを追加 (4)

さて、最近の逆炎上案件を見てみよう。

「私作る人、僕食べる人」とは、今から約半世紀ほど前、ハウス食品工業のインスタントラーメンのCMで流されたキャッチフレーズだ。

女性がラーメンを作り、男性がそれを食べるというシーンが、男女の性役割分断の助長につながっているということで、フェミニスト団体から叩かれたという事例で、本邦における最初のフェミニストによる「広告炎上」の案件であると言っていい。

今回の事例に当てはめれば、米袋の裏の「おいしい召し上がり方」のイラストで、女性が米を研ぎ、男性が食べているのが、「私作る人、あなた食べる人」と同様の「差別」だという批判だ。

なるほど。

だが、ちょっと待ってほしい。

……どうして、米を研いでいるのが女性で、食べているのが男性だとわかったんだ???

あれれ~おかしいよ~、と見た目は子どもの名探偵ばりにとぼけてみたくもなる。

本当に批判者(デビューボ氏)が差別心と偏見をカケラも持たない素晴らしい反差別の闘士ならば、この発言はおかしいからだ。

そう。

デビューボ氏の批判が成立するためには、左上の髪の長い人間のイラストが女性であると断定しなければならず、右下の米飯を食べている人間が男性であるという断定する必要がある。

ところが、そのようなことは絵のどこにも書いてないのである。

髪型や服装から、勝手にデビューボ氏が男女を読み取っただけなのだ。

そして、その解釈は、髪型や服装の多様性を無視した、一方的断定にほかならない。

この不用意な発言に、アンチフェミが餓狼のごとく群がり、あっという間に逆炎上の形勢となってしまった。

デビューボ氏は差別を告発しようとしたにもかかわらず、逆にその差別的偏見の持ち主だと、批判されてしまったのだ。

もちろん、私のツイートは、ただの「皮肉」だ。

実際、私の上記ツイートに対しては、多くのフェミニストアカウントのみなさんから、「小学生並みの屁理屈」「いちゃもん」「不誠実な揚げ足取り」とのコメントが投げかけられた。

だが、もう一度、ちょっと待ってほしい

いったい、どこがどう「屁理屈」なのかを考えてみよう。

私に寄せられたフェミニストの方々のコメントの多くはただの罵倒だったが、なんとか説明しようとしているものもいくつか見受けられた。その代表的なものがこれだ。

長髪でエプロン姿の人物を女性と解釈し、また女性の典型的な姿態として表現することは「記号化」、つまりお約束事なのだから構わないという論理だ。

事実、絵に描かれているような髪型や服装の人間は、大部分が女性なのだから典型的な事例として記号化しても問題ない、それは差別ではないという主張であろう。

なるほど。その点で、私の上記のコメントが屁理屈であることは認めよう。実際、私も「左上の人物が女性ではなく、クロスドレッサーの男性かもしれない」などと解釈すべしと本気で主張するつもりはない。

しかし、そうであるとするならば、大元の「米を研ぐ人を女性で表現することは差別である」という主張はどうだろうか。

いまだ専業主婦(夫)に女性が多いことを考えれば、「米を研ぐ人」に女性を当てたことは、ただの典型事例を掴んだ記号表現の一部であって、「料理は女性の労働であるべき」などというメッセージを含有してはいない

記号表現とは畢竟、ステロタイプ化なのであって、ステロタイプ的表現は直ちに差別ではない。

「このようなステロタイプこそ、本来の女性の姿である」とか、

「女性はこのようなステロタイプ的な生き方をすべき」だとか、

ステロタイプと倫理的規範を結びつけたならば、確かに、差別的メッセージを含む表現物となりうるだろう。

だが、「ステロタイプ的に女性を表現したから差別だ」とか、「ステロタイプ的な読み方をする人は差別者だ」というのは根拠のない見方である。

もしステロタイプ表現すべてが差別なら、トイレの男女を示すピクトグラムさえ差別であると糾弾しなければならないだろう。

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(※実際、愛知県大府市では、このピクトグラムが差別だということで、男女のマークが同じものになっているトイレが設けられたことがあるそうだ。もちろん、あまりに不便であるため、元に戻ったという経緯がある)

問題の米袋には、「女性はこのような髪型をすべきだ」というメッセージもなければ、「米を研ぐのは女性であるべきだ」という主張も存在しない。

であるならば、勝手に差別的メッセージや主張を読み取って、批判するべきではないのである。

そもそも、なぜただのステロタイプ表現が、ただちに差別表現だということになったのだろうか。

そのヒントは、大元のデビューボ氏の言葉のなかにある。これは、半世紀続く呪縛なのである。

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「私作る人、僕食べる人」

女性がインスタントラーメンを作り、男性が食べるだけの単なるCM表現が、許されざる差別表現と認定されて以来、単なるステロタイプも含めて差別表現であり、是正されるべきものという見方がなされるようになってきた。

だが、これは、私のツイートに多くのフェミニストのみなさんが「難癖」だと主張したのとまったく同じ意味で、半世紀続く壮大な難癖にほかならない。

「ステロタイプ表現=差別」

この規範は、男女差別表現を批判しようとする当の本人たちでさえ、順守できないほど過度に広範であり、しかも無根拠である。

なぜなら、ステロタイプ表現は単なる記号的表現にすぎず、「ステロタイプが正しい」とか「ステロタイプ的な性役割分担が維持されるべきだ」というメッセージを含んでいないからだ。

書かれていないものを私たちは読み取ってはいけない。

ステロタイプ表現は差別表現だと言っている本人たちでさえ、ひとたび反転されれば「難癖」だとわかるのだから、「ステロタイプ表現=差別」はただの幻想だ。

そして、幻想は打ち砕かれなければならない。

これが第一の弾丸である。


第2の弾丸:アイキャッチ無罪論

性的魅力の活用≠ 「性的モノ化」 (1)

さらに、最近の事例を検討しよう。

国分寺市の地元JC(青年会議所)が作成した、市長選挙公開討論会のポスターである。

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日本女子大の吉良智子学術研究員(美術史・ジェンダー史)は「男性向けのグラビアにありがちなポーズだ。女性像を目を引きつけるための『アイキャッチ』として利用した」と指摘。JCの回答についても「不快に感じた人に問題を押しつけている」と批判した

吉良研究員が東京新聞へのコメントの中で指摘されている通り、確かに、問題のポスターの意匠を見れば、モデルの女性がいわゆる「アイキャッチ」として機能していることは議論の余地がないように思われる。

だが、アイキャッチになっていることが問題なのであれば、そもそも「なぜアイキャッチが問題なのか」ということが問われなければならない。

ところが、この「アイキャッチ」がなぜ悪なのかという根本問題について、驚くほど説明が少ないのである。

TwitterにおけるJCポスター批判側の主張を見てみよう。

かなりの数の批判側の主張を読んだつもりだが、「アイキャッチであることが問題」で話が止まっており、具体的な分析はなされていない。

一般的にアイキャッチが倫理的に悪であることの理由としてよくあげられる論理は、次のようなものだ。

「広報対象と何の関係もない女性が『飾り物』として扱われている」

「女性を性的価値だけの存在であるとして辱めている(性差別だ)」

だが、これらはなんの根拠もない理屈だ。

第一に、女性を「飾り」、つまり、商品やコンテンツ、政治的主張をより良く見せるために活用することは、なにも悪いことではない。

CMに登場する有名人は、広報対象をより良く見せるための「お飾り」の役割を果たしているし、その多くは、宣伝対象とたいして関係がない。

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(※例示:大正製薬のクラリチンEXのCM)

広瀬すず氏はAGCのガラス製品や明星チャルメラのラーメンや味の素のギョーザとは何の関係もないし、櫻井翔氏は特に花粉症というわけではなくとも花粉症薬のCMをしている。単に彼らが有名で、製品の好感度を引き上げそうな、良いイメージのタレントだからというだけであって、フェミニストが要求するような厳密な関係性があるわけではない。

それらすべてを「飾り」だからという一点で、「モノ扱い」されているがゆえに不正義だと言いうるだろうか。

ポスターの被写体の女性が、本人の意思に無関係にポスターに出演させられていたり、あるいは明示的に非人道的扱いが示唆されていれば(例えば奴隷の首輪がつけられているというような)、何らかの倫理的問題を主張しうるかもしれないが、件のポスターは単に女性が片膝を立ててポーズをとっているだけである。

第二に、性的価値が強調されているから問題だということであるが、これも根拠がない。

そもそも、なぜ性的価値だけが問題視されるのだろうか。

私たちは、スポーツ選手の優れたパフォーマンスを見て感嘆し、それを娯楽として楽しむし、棋士の優れたゲームプレイを見て、彼らにあこがれ、お金を払ってでもその試合を見ようとする。

身体的価値や知的価値の消費だ、不正義であるなどとは言わないだろう。

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そうであるなら、性的価値を活用することへの根拠のない批判は、自らの性的価値を活用して、より高い収入や社会的承認を得たいと考える女性の自由や選択肢、そして社会的な多様性を損なうだけなのである。

では、「女性ばかりが性的価値を強調されているから、男女差別を助長しているのだ」という主張はどうだろうか。

だが、これもおかしな論理だ。性的価値を利用した表現や広告は、通常、「女性には性的価値『しか』ない」とか「性的価値が利用される『べき』だ」などと主張しているわけではない(第1の弾丸、「書かれていない倫理的主張を読み取るな」をもう一度思い出そう)。

さらに、今では、男性の性的価値を強調した表現などは枚挙にいとまがない。

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メーカーサイト(https://t.co/861ZTGOo4k?amp=1

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(引用:https://twitter.com/ikemenvampire/status/1245003241198366720

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(引用:https://www.oricon.co.jp/news/2116856/photo/1/

もちろん、相対的に、男性の性的価値を活用した広告は、女性の場合と比べてまだまだ少ないということは事実だろう。

だが、バランスだけが問題なのであれば、男性の性的価値をより活用するよう求めればいいだけの話であって、女性の性的価値を活用することが差別であるということの根拠にはならない

そのように突き詰めていくと、しばしば提示されるのは、平成15年に内閣府が発行した「男女共同参画の視点からの公的広報の手引き」というガイドラインであった。

その6ページ目には次のようにある。

内閣府

出典:宇都宮市ホームページ

お上が出したガイドラインだから、公共的な広告、どころか大企業や公的な性質を持つ団体も、すべてこれに従えというわけだ。実に乱暴な論理だが、かつては説得力があった。

「アイキャッチに使うのはダメだと政府も書いているだろう。政府の見解に文句があるなら、フェミニストじゃなくて政府に言え」

これは、フェミニストの殺し文句の一つであった。

だが、残念ながら、その言葉ももう無効だ。

政府に私が問い合わせた結果、このガイドラインは過去のものであり、現在は削除済であるとの回答を確認したからである。

私のこの「問い合わせ結果」について、様々な解釈が飛び出しているようなので、少し補足したい。

「指針や規則ではない」というのは、とどのつまり、最初から何らかの価値判断をしたり、公共広告を束縛するために作られたものではなく、ひとつの提案にすぎないということだ。

当然、「このガイドラインに従ってないから差別だ」などというのは、はなからガイドラインの性質を勘違いした暴論だ。

これに加えて、現在削除済みなのだから、提案としても陳腐化しており、現在の公的表現について金科玉条のように当てはめるのは、まったく馬鹿げているのである。

要するに、政府の一部局が昔々に作ったことのあるご提案、というわけだ。

アイキャッチ表現が差別であるという主張の裏付けとしてはまったく役立たずのシロモノである。

以上の通り、いかなる観点から検討しても、単に「性的価値」を「アイキャッチ」として用いることだけで、何らかの倫理に反するとは言いがたい。

そして、言うまでもないことだが、なにかが有罪(悪・不正義)であると主張するのであれば、告発側に挙証責任があるのは明らかだ。

アイキャッチを有罪とするあらゆる論拠を洗いざらい検討してもなお、有罪であると客観的に証明することができないのだから、私たちは次のように結論するしかない。

判決:無罪


第3の弾丸:これからの公共空間を支配するのは「寛容の精神」であるべきだ

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ここまでの第1・第2の弾丸に関する議論を整理しよう。

note記事「銀の弾丸」①

フェミニストは、単なるステロタイプ表現やアイキャッチに対して、差別的なメッセージを読み取るような解釈を加えてきたが、それ自体、なんの根拠もないものである。

それは、フェミニズム批評の特別な解釈枠組みをインストールしなければ出てこない、特殊的かつ作為的な解釈にすぎない。

フェミニズム批評の学術的・文学的な意義を否定するつもりはないが、それを表現物にかかわる普遍的な倫理や絶対尺度として運用しようというのは、明らかに無理がある。

最後に、フェミニズムから少し離れて、「TPOに反している」という主張について、見ていこう。

TPOに即していないという意見については、一定の検討が必要である。

例えば、公的な儀式の場に水着で現れたり、葬儀の場にピエロの恰好で現れたりしたならば、それは一般に道徳的な非難の対象となるべきことだろう。

改めて、当該ポスターを見てみよう。

キャプチャ

確かに、丈の短いスカートであり、派手な印象を受ける服装であるが、であるからといって、この服装の女性が、例えば討論会を傍聴しに来たとして、それは「TPOに反する」ことであると言いうるのだろうか。

そのようにどこまでもTPOを強調する見方こそ、それこそ、女性を家庭に押し込めてきた、道徳保守主義的な風潮そのものではないのか。

このようなポージングの女性が、討論会のポスターに使われていることは、すでに検討した二つの視点を退けたならば、「なんだか不快だ」という道徳感情の問題しか残らないのである。

二つの銀の弾丸がフェミニズム的な理論的装いを打ち砕いたあとに現れたのは、伝統的な保守主義者の顔だったというわけだ。

結局、トイアンナ氏の見立てが正しかったのである。

誤解のないように言うが、道徳感情の問題は、軽視するべきものではない。

もちろん、公共空間で、他者の羞恥心や道徳感情を著しく損ねるような行為や表現が、一定程度、道徳やマナーのレベルで批判の対象となることは当然だ。

公道で全裸になったり、不愉快な音響で厳粛な儀式の場をかきみだすことは、一般に道徳に反することであり、多様性を守るためにそうした道徳のすべてを否定せよというのは、現実的なことではない。

公共空間は、他者を不快にさせないという公共性と、様々な人間に開かれた場所となるべき多様性の間で、常に緊張関係が存在している。

どこまでを多様性として認容し、どこからを公共性の問題として制限するかは、いつだって議論の対象だ。

だが、その緊張関係の中で多様性、すなわちダイバシティの側に立ち、寛容の精神を要求してきたのが、本来のフェミニズムの立場ではなかったのか。

「このようなふしだらな服装を公共の場でするとはケシカラン」

「トランスジェンダーはキモチワルイから公共空間から出ていけ」

「女性はかくあるべき、〇〇はこうあるべき」

こういう偏見や嫌悪感情と向き合って、公共空間のありようを拡大してきたのが、本来のリベラルではなかったのか。

JCのポスターについて発言したアカデミシャンのみなさんに言っておく。

ただの感情的な「ふしだらはケシカラン」に「フェミニズム」の装いを与えれば、フェミニズム的な政治目標(例えばジェンダーフリーや反差別)に対して巨大な大衆動員ができるように見えるかもしれない。

だが、あなた方のやっていることは、人々の保守的な道徳感情にリベラルな免罪符を発行しているだけだ。

インターネットの「ふしだらはケシカラン」という感情をかき集めて、巨大なケシカラン玉を作ってぶつける。あなた方がやっていることは、つまりはそういうことだ。

そのケシカランの対象が、守旧的なJCや、お高くとまった公共団体なら、スカッといい気持になり、達成感も得られて、フェミニズムの思想的意義を再認識できる。

だが、あなた方が丹念に育てたケシカラン玉の中身が保守的な道徳感情に過ぎないのであれば、その矛先は容易にトランスジェンダーやマイノリティに向きうるということを忘れてはならない。

事実、インターネットにおける女性の保守的な道徳感情にフェミニズム的な装いを与えた結果として、多くのTwitterフェミニストが、いまやTERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト:Trans-exclusionary radical feminist)に傾きつつあることを、直視すべきだ。

これは、あなた方の育てたケシカラン玉から孵化した存在なのだから。

何度も言うが、道徳感情の問題はしっかりと論じられるべきだ。

しかし、それは不愉快に感じた私たち個人の道徳感情として生のまま検討されるべきなのであって、それ以上の一切の反差別や正義にかかわる余計な概念を導入するべきではない。

「あなたのキモチワルイは、あなたのキモチワルイでしかない。それは反差別でも正義感でもない」

そして、異なる価値観を持つ他者と、自分たちの道徳感情が衝突した場合においては、可能な限り、異質な他者を尊重すること。

これこそが、本来のリベラリズムの思想的基礎を支える、寛容の精神であったはずである。

今一度、私たちはその場所に立ち戻る必要がある。


終局の論理:「女性」は「あなた」ではない

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(引用:碧志摩メグ公式ホームページ https://www.ama-megu.com/

碧志摩メグをめぐる論争が行われた2015年ごろ、萌え表現や性的要素が使われた広告物を批判する際、フェミニストはしばしば「性的消費」に当たるから良くない、という言い方をしていた。

2015年当時の論争の中で、すでに性的消費という概念はなんの定義もなければ、なにが悪いのかの理由付けもあいまいという、ただのネットミームにすぎないことが看破され、概念としては終わった。

にもかかわらず、この「性的消費」という概念は、何度も再燃することになる。

例えば、2020年のアツギタイツ炎上でも、「性的消費だから悪である」という論調が盛り上がることとなった。

改めて、この「性的消費」という言葉を考えてみよう。

「消費」というからには、消費される「対象」がどこかに存在するはずである。

セクシーなポーズをとっているのが大人の女性であり、しかも自らの意思で出演しているのだとすれば、フェミニストといえど、それ自体が差別だとは言わないだろう。

ましてや、絵に描かれた女性が、いかに過酷な仕打ちをうけようと、フィクションの中の話であって、それ自体は誰の人権も侵害していない。

にもかかわらず、なぜそれらの表現が人の目に触れるや否や、「性搾取」で「性差別」で、そして許されざる悪=「性的消費」になるのだろうか。

そこで「消費」されているモノとはなんだろうか。

7年もの間、私は繰り返し、繰り返し、それを問うてきた。フェミニストたちは明確な答えを返そうとはしないが、その中で得られた断片的な言葉を拾い集め、つなぎあわせて、私が代わりに一つの「答え」を言おう。

そこで「消費」されているのは、「女性」という抽象的な全体、「女性」という概念である。

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公衆の目に触れる場所にセクシュアルな女性の表現が置かれたとき、それを見るフェミニストや一部の女性は、単に絵や写真の中の女性が、自らの意思でセクシーなかっこうをしているだけだ、とは考えない。

そこで煽情的な身振りを「している」のは、表現の中にいる女性本人だけではなく、彼女を含む「女性」という抽象的集団であり、概念なのである。

表現物に出演しているのは実在の女性かもしれないし、架空のキャラクターかもしれない。また、同意のもとで、どころか自ら進んで性的なアピールをしているのかもしれない。だが、それらは無関係だ。

なぜなら、抽象的集団の「女性」は、そしてその一部である自分自身は、「女性が公共的な場で性的なアピールを『させられる』こと」に同意してはいないからだ。

表現を見ている女性は、「女性」という抽象集団の一部として、望まない性的欲望の対象にされたという「消費」の感覚が生じるのではないだろうか。

公共の場所での、あるいは公共的な団体の表現物がターゲットになりやすいのも、そういう視点から見れば理解できる。

表現に描かれている特定の誰かに対してではなく、自分を含めた「女性」という集団が、性的価値を利用され、消費されること。

それが「性的消費」の感覚を生んでいるのである。

Twitterのフェミニストが一時期好んで引用した、次の漫画がこの「消費」の感覚を非常に上手に説明している。

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たとえ絵や写真の中の、自分ではない女性であったとしても、同じ「女性」に向けられた欲望は、自らの身体に向けられ、また自らの身体が「させられている」ような感覚を受ける。

これが、「性的消費」をあたかも自らの被害のように感じる機序ではないだろうか。

そして、この「被害」を訴える「性的消費」という言葉の裏には、次のような前提が置かれているのであろう。

男たちの欲望の対象として、「女性」が自分たちの望まぬかたちで表現され、なんの同意もなく鑑賞され、評価され、快楽のために利用されることは権利の侵害である。少なくとも女性の一人である自分は、女性がどのように表現され、どう見られるかについて、コントロールする権利がある、と。

もしくは、「女性」の見られ方について、「私たち女性」にはなんらかの特別な請求をするだけの倫理的根拠があるのだと。

かくして、抽象的全体としての「女性」の代弁者として、「性的消費」に対する告発が成立するのである。

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だが、あえて言おう。そんなものは存在しない。

抽象的全体としての「女性」などというものは、そもそも存在しえないのである。

そもそも、「女性」とはなんであるのか。

多様な意思や個性を持った主体を一つの概念にくくり入れて、被害を告発する主体として連帯するという手法そのものが、根本的な無理を抱えているのである。

私が述べた米袋の事例は、その顕著な例に過ぎない。

「これは女性を差別(搾取・消費)した表現である」

と告発するとき、その「女性」の枠組みから外れる人々は、女性から除外される。

それは、一方では、性的表現による「消費」の感覚を共有しない、アンチフェミニスト女性すなわち「名誉男性」の疎外であり、

もう一方では、その表現を「女性」たらしめる要素を共有しない、トランスジェンダーやクロスドレッサーといった人々の外部化である。

そもそも、女性身体を持つ人々が、「女性」という概念を占有し、操作し、自分たちのことを指している、と考えること自体がおこがましいのではないだろうか。

服装が男性的であっても、女性である人々がいるように。

性器の形態が男性的であっても、女性である人々がいるように。

ホルモンや、遺伝子や、身体の特徴にかかわらず、女性である人々がいるように。

「女性」という概念は、シスヘテ女性の占有物ではない。

もっと言えば、

性自認も身体的性別も男性の人が、VTuberとしてひととき女性としてふるまうとき、その人は女性に「成る」のではないのか?

ゲームで女性のキャラクターを操るとき、その人は女性に「成る」のではないか?

例えば私のように、女性のアイコンを使う人はどうだろうか?

改めて問おう。いつから、「女性」は女性身体を持つ人々の占有物になったのだろうか?

Twitterでフェミニストが表現物を炎上させる際の決まり文句は、「不自然な」「不必要な」性的要素という批判だ。

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だが、表現物が表現する「女性」にとって(「あなた」ではない!)、なにが自然で、なにが必要かを、いったいなぜフェミニストが決めることができるのだろうか?

「女性」の自然な体はこのようなもので、本当の女性はこういうものだ、という語りをし、そこから外れたものを不道徳として排除してよいという思い込みほど、傲慢なものがほかにあっただろうか。

そして、この傲岸不遜こそが、「自分たちから見て不自然な「女」」であるところのトランスジェンダーへの敵意とつながり、彼女らを「TERF」へと駆り立てたのではないだろうか?

染色体がたまたまXXで生まれついたというだけで思いあがってしまっているのかもしれないが、あなた方に「女性」がいかにあるべきかを決定する権限など存在しない。

いや、あるとしても、地球上のすべての「女性」を構成するイマジネーションのうちの、ほんの一票の投票権を持つにすぎない。

あなた自身の身体と精神こそが「女性」だと思っているのかもしれないが、グラビアでほほ笑んでセクシーな姿態をとる人も「女性」であり、Vtuber制作者のイマジネーションも「女性」であり、高輪ゲートウェイで通りすがりの人に愛をささやくAIも「女性」なのである。

はっきり言おう。

「性的消費」されている表現物にあなたが肩を震わせて嫌悪を抱いたとしても、そこで消費されているのは「あなた」ではなく、「女性」というイマジネーションである。

あなたは、「女性」というイマジネーションが、あなたや、あなたと同じ遺伝子を持つ人々の独占物だと思い込みたいのかもしれないが、それはもう不可能である。

「女性」という概念がトランスジェンダーの人々に開かれたように、オタクや、Vtuber制作者や、シスヘテ男性の欲望の世界とも、インターネットによってダイレクトに接続され、概念のエントロピーは爆発的に増大しているのだから。

多様性の世界にようこそ。

思い込みは捨てて、変化し続ける「女性」概念を、あなた方は諦めて受け入れなければならない。


結論:不死者の論理に終止符を

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失恋した、だらしのない体の「オタク」が、海で筋骨たくましいサーファーの男性に「海、似合ってないね」と言われ、一念発起して、サーフィンに熱中する。

海で鍛えられて逞しくなった元オタク青年に、マッチョなサーファーが言う。

「海、似合ってきたね」

これは、2017年に日向市が作成した、観光PR用のプロモーション動画である。

マッチョでセクシーな男性の身体を広告のために活用し、

ルッキズム全開のメッセージ性を含むものでありながら、

宮城県のCMや碧志摩メグを性的消費だと批判していたTwitterのフェミニストたちはこのCMを絶賛した。

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もちろん、そのダブルスタンダードには多くの批判が集中した。

性的消費は悪ではなかったのか?

ルッキズムを利用するCMは不正義ではなかったのか?

批判者たちの当然の疑問に、フェミニストはこう応答した。

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公共のCMがルッキズム的価値観を利用しようがなんだろうが、「そこに優劣を一切つけていない」と言い切っていいのであれば、アイキャッチだろうがステロタイプ表現だろうが、もはやなんでもありであろう。

だが、それ以上に、この言葉は重要な示唆を含んでいる。

表現物は、「あなたにそれを求めていない」ということだ。

表現物は女性代表でも男性代表でもなく、すべての人にそうあるよう求めるメッセージを含んではいない。

男女を逆転させるだけで、この当たり前の事実に、フェミニストたちも容易に気が付くのである。

2015年に性的消費論争が始まってから2年後の2017年、論争は結末を迎えた。

……はずだった。

だが、その「死んだ」はずの論理は、幾度も幾度もよみがえり、私は何度も何度もそのたびに反転可能性テストを行うことで、墓場へと送り返し続けてきた。

だが、そろそろこのような茶番は終わりにしよう。

不死者には銀の弾丸を。

終わった論争には終局を。

「あなたにそれを求めていない」

「絵の中の女性はあなたではない」

これが無限に続いてきた炎上を終わらせる、論理の弾丸である。

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フェミニストの難癖は「中指立てて」墓場へと送り出そう。


以上


青識亜論

ネット論客。表現の自由について論じます。アイコンはマスコットキャラクターの「ヴォル子」さん。 座右の銘 「私は君の言うことに反対だ。しかし君がそれを言う権利は命をかけても守ろう」