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ツイフェミはフェミサイドを治癒しない

8月6日の夜。

小田急線の車内で、悲惨な傷害事件が発生した。

被害者は、男女あわせて10人。うち女性1名は重傷を負った。

被害者のみなさんの一刻も早い回復を祈るとともに、卑劣で理不尽な犯罪行為に対して、怒りと抗議の意を表明したい。

さて、「女性への憎悪により発生した殺人未遂事件」であるということから、SNSをはじめとした各種メディアでは、ずいぶん前のめり気味の論争が続いている。

容疑者が逮捕されてまだ間もない事件について(執筆時点:2021.8.13)、動機や背景を論じるのは性急に過ぎよう。

だが、今のTwitter上で行われている論争、特にこのセンセーショナルな事件から受けた人々の衝撃を、ここぞとばかりにフェミニズムへと動員しようとする動きについては、今の時点ではっきりと声をあげておく必要がある。

それはあまりにも浅ましい「政治的劣情」であり、この痛ましい事件を都合よく利用することにほかならないからだ。


「パレットーク」マンガの批判的検証

この政治的劣情があからさまに表れているのが、『マンガでわかるLGBTQ+「パレットーク」』が投稿した下記の漫画だ。

1枚目は「フェミサイド」の概念を紹介するものであって、これはいいだろう。

論理的な飛躍が始まるのは2枚目からだ。

まず、2枚目の2コマ目で、容疑者の供述が紹介される。

大学時代にサークル活動で女性から見下された 出会い系サイトで知り合った女性ともうまくいかなかった 勝ち組の女性を殺したいと考えるようになった

そして、4コマ目からいささか唐突にミソジニーの概念についての解説がさしはさまれる。

「男同士でもつまんね~ 女の子呼べよ~」「セックスしたいから彼女ほしい~」「お前も早く嫁さん持て! 帰って飯がある生活はいいぞ~」「女子が入れるお茶の方がうまいな~!」知っておいてほしいのは、これは全部ミソジニー(女性蔑視)が根底にある発言だということ。

そして、そのミソジニーによって、「女性のせいで自分は「負け組」なんだ」と思わされているように示唆される。

この流れには驚くほど論理的関係性が存在しない。

あまりにも飛躍が大きすぎてマンガだけからその論理を読み解くことは困難であるので、少し整理しよう。

女性を「モノ扱い」する価値観が社会的に共有される(ミソジニー)

女性が誰か特定の男性を相手にしない/見下す

モノでしかない劣った存在(=女性)にさえ相手にされない/見下される人間は「負け組」であるとの思考につながる

「負け組」レッテルの発生

このようなところだろうか。

だが、最初の容疑者男性の供述に戻って考えてみてほしい。

男性の憎悪の由来は、あくまで「女性から見下された」「女性ともうまくいかなかった」でしかない。

もちろん、そこから女性一般への憎悪をつのらせることは、確かに見当違いで理不尽な思考だ。

だが、そこには漫画が示唆するような「ミソジニーから生まれた負け組レッテルによる憎悪」を明示的に読み取ることはできない。

マンガ作者もそのことがわかっているからか、

「女性のせいで自分は「負け組」なんだ」と、女性への憎悪をためてしまうことも少なくない

などと一般論としての可能性を示唆するにとどまっている。

だが、次の3枚目2コマ目ではいきなり刃物を握りこみ、刃に女性が写り込んだぶっそうな絵が描写される。そして、「その責任を「女性」に押し付けてもなにも解決しない」などと、一般的可能性だとの言い訳もどこへやら、あたかも負け組にしたてあげられた憎悪から今回のような犯罪が起きるかのように記述されるのである。

かくして、容疑者の供述にはない、「女性を自分のモノ扱いしている」ミソジニーや性差別が、今回の犯罪の原因であることを暗に示唆しながら、次のような結論に至る。

大事なのは、フェミサイドを許さない、性差別の問題を矮小化しないこと そして、「自分が責められている」と感じて考えるのを拒否するのではなく、社会の空気を作る1人として、女性だけじゃなく男性も、声をあげることじゃないだろうか

もはや繰り返す必要もないかもしれないが、いちおう言えば、「性差別」や「社会の空気」が犯罪を起こしたのだとする根拠はどこにもない。容疑者男性の自供からも読み取れない。

男性の言葉から読み取れるのは、ただただ「女性に見下された」「うまくいかなかった」ことへの恨みつらみであって、そこから「女性一般への憎悪」「ミソジニー」そして「社会の空気」が犯罪につながったというのは、マンガ作者の手前勝手な解釈でしかない。

そして、異常な思考を持つ特定個人の犯行から、「負け組のレッテルを貼る社会」「社会の空気」に責任を拡大することで、「性差別を矮小化するな」と、あたかもフェミニズム運動に参加することによって、問題を治癒することができるかのように結論されるのである。

あまりにも厚顔無恥な主張だ。

いまわしい悲惨な事件を利用して、まったく無関係な運動に人々を動員しようというのだから。

これはもはや「政治的火事場泥棒」というほかない。


「女性憎悪」を育んだ者は誰か?

小田急線の事件によっていきり立つフェミニストたちの発言は、もはやあきれ返って笑いさえ漏れるほどの状況となっているが、一例を紹介しよう。


キャプチャ1

(引用:https://twitter.com/neko_nocone/status/1424206327111245826

「〇〇人が殺人を犯した、〇〇人が怖いから彼らから税金を取って、日本人にタクシー券を配ろう」などと言う人がいたらどうだろうか。完全無欠のヘイトスピーカーであろう。


キャプチャ3

(引用:https://twitter.com/Katsube_Genki/status/1424031586555600897

ご自身の精神構造を吐露されているのかもしれないが、「幸せそうな女性を見ると殺したい」などという精神構造を男性全体に勝手に押し付けないでいただきたい。


キャプチャ5

(引用:https://twitter.com/ishikawa_yumi/status/1424028044826615808

落ち着け。


キャプチャ6

(引用:ttps://twitter.com/nahokohishiyama/status/1424366159168557060

ただの近所迷惑をたしなめられたのが、なぜかフェミサイドのせいになっている。


キャプチャ7

(引用:https://twitter.com/i_tkst/status/1424955936125325313

これも上記の漫画と同じで、なぜか「男社会の作り出した劣等感」とやらが虚空からポップしてきている。


画像6

画像7

(引用:https://twitter.com/osonodoyo/status/1423813254028140545
(引用:https://twitter.com/biomasterchan/status/1423809686726316033

そして急に持ち出される「アンチフェミの言葉が積み重なった結果」という謎の断定。行きがけの駄賃とばかりに殴られる青眼鏡。

もう私の眼鏡のヒットポイントはゼロである。やめてほしい。

続けるとキリがないのでこのあたりにしておこう。

冷静に考えてみてほしい。

パレットーク氏とTwitterフェミニストたちは、自分たちの運動(彼/彼女らはそれこそが「フェミニズム」と称している)こそがフェミサイドを食い止めるのだと考えているようだが、事実としてどうだろうか。

もしもTwitterフェミニストが言うように「女性憎悪」が犯罪の原因であるとするならば、女性憎悪の治癒こそが必要であるはずだ。

であるならば、彼ら/彼女らは、自らの運動によって、女性憎悪がなくなると信じていることになる。

だが、実際にはどうだろうか。

誰の目にも瞭然であるように、これは「致命的な思い上がり」だ。

この人々の言葉で溶けてほぐれる女性憎悪などみじんも存在しない。

どころか、感情的に恐れおののき、「男性」全体に加害性を見出して責任を追及するこの姿は、女性が非理性的であり、対話不能であり、劣った、とるに足らない存在であるという、ミソジニストたちの主張にかっこうの証拠を提供しているようなものだ。


 つまり女性たちは男性とは対照的に、理性化するのではなくむしろ「動物的であること」を希求していった。動物的な本能を前面に押し出し、それが社会的に咎められないよう「わきまえない女/男性の言いなりにならない女/自立した女性」などとしてポジティブに称賛される雰囲気を作り出したのだ。お見事としか言いようがない。


女たちは弱者と強者の仮面を都合よく使い分ける。出世レースのような場では「男女に能力差はない」という建前を、表現規制のような場においては「女性の傷つきやすい感性」という弱者の顔を。その場その場の利益のためだけに、短絡的に、一貫性などなく、幾多の顔を使い分けるのが女という生き物である。


 「女性(私)を不快にするようなフィードバックや働きかけをとる者は加害者・ハラスメント者・女性差別主義者である」という風潮のせいで、年齢相応の分別がつかず、自分の言動やコミュニケーション態度について客観的に省みることもできなくなった「女の子女性」がどんどん増えている。


自省することを求められず、甘えが無制限に許容されれば、知的にも精神的にも劣化することは必然だ。女性批判が不可能化してしまった今の時代、女性たちはむしろ過去のどの時代よりも知的、精神的に劣った存在になってしまったようにも見える。人は規範を失えは本能のままの獣に戻る。それは男女平等のパラドックス(The gender-equality paradox)などで広く観測された傾向だ。ヒトが獣に戻る姿を、いつまでも見続けたいとは思わない。獣をヒトに戻すためには何が必要なのか。そういうことを最近は考えている。


白饅頭氏も小山氏も、優れたエッセイストであり、たいへん多くの読者を集めている。もちろん、私もその一人として、彼らの記事をいつも楽しみにしている。

だが、その彼らが上記のような「女性叩き」をしたとき(Twitterで大はしゃぎをしている粗悪なミソジニストのように露骨ではなく、ほんのぴりりと香辛料を利かせる程度だ)、彼らのnote記事にはひときわ大きな「いいね」が入る。

時に切実に、時にユーモラスに、ウィットをもって行われる「女性叩き」。

その女性叩きに正当性を与えているのはなんだろうか。

女性叩きに喝采を送る人々の「男女対立大運動会」を回す原動力はなんだろうか。

結局、それはもう一方の側の「男叩き」ではないだろうか。

もちろん、逆もしかりだ。

男叩きが女叩きを加速させ、女叩きは男叩きを加速させる。

バッシングがバッシングを生み、加速していく永久機関。

男女対立コンテンツの巨樹は育ち、憎悪という名の巨大な果実を太らせ、地に落とした。

そして今また、小田急線の痛ましい事件を種に、「男性が悪い」「女性が悪い」と男女対立コンテンツの樹木が育とうとしている。

私たちはこの憎悪の連鎖を止めなければならない。


男女対立の連鎖を止めるためにできること

パレットークの漫画に印象的な一コマがあったため、あえて引用したい。

キャプチャ

(引用:https://twitter.com/palettalk_/status/1425787572198858755

「「負け組」というレッテルを貼り、自分を苦しめているのは、「女性」ではない」としつつ、「そのレッテルを貼るのも、自分を苦しめているのも、社会と、周りじゃないだろうか」というのだ。

つまり、「社会と、周り」には「女性」が含まれていないのである。

もちろん、あえてカギカッコで包み、「女性」と表記しているのは、「女性だけではない」「集団としての女性があなたを苦しめているわけではない」ぐらいのことを言いたかったのかもしれない。

しかし、であるならば、せめて「女性だけではない」と表記すべきではなかったか。

負け組とレッテルを貼り、苦しめる「社会」に、「女性」である自分たちは含まれないという傲慢さ、無責任さ、残酷さ。

もし、このような思考が女性一般に受けいられているのだとすれば、「動物的」で「他責的」で「自らの姿を客観視できない」のだという、白饅頭氏や小山氏の女性論はまさに適切であることになってしまう。

「負け組」というレッテルを貼り、他者に劣等感を植え付ける価値観を再生産しているのは、まさに自分たちでもあるかもしれないという視座の回復。

ヒステリックに男女対立の構図を煽り立てるのではなく、事件をいったん冷静に受け止め、自分をも含めた社会全体の問題として洞察する当事者意識。

女性にも、もちろん男性にも、対立の連鎖を解消するための責任があるのである。

もちろん、その責任の一端を、私も担っている。

どころか、私はアンチフェミニストのアルファアカウントとして、眼前の政治的目標のあまり、ときに冷静さを失い、しばしばいたずらに男女対立を煽ってしまったことを告白し、謝罪しなければならないだろう。

そして、そのような罪の呵責があるからこそ、いたずらに男女対立を煽る人々に対して、誰よりも強く警鐘を鳴らしたい。

そしてまた、男女やフェミニスト/アンチフェミニストの双方が、差異を超えて対話できる場づくり――そのひとつが坂爪氏とともに取り組む「これフェミ」であるのだが――を行っていきたいと思う。

その試みに共感してくれる人は、ぜひ、力を貸してほしい。

この不毛な男女対立大運動会を終わらせるために。


以上


青識亜論



補論:フェミニストの「不必要」な論理 ~アンコレさんのトドメの一撃編~


このnote記事投稿後、uncorrelated氏から興味深い指摘が寄せられたので、取り上げたい。

そう。

容疑者男性の自供から犯行に至るまでの心の動きを描写した3枚目のカットにおいて、パレットークのマンガ作品は「社会からの負け組認定」という要素を挿入しているのであるが、

この要素は一切なくても話は成立するのである。

もっと言えば、「ミソジニー」の下りも不要だ。

「女性は自分を見下してくる」

「女性と自分はうまくいかなかった」

容疑者男性の自供から動機を考察するならば、女性から個人的に手ひどい仕打ちを受けたが故に、女性性全体への憎悪につながったというだけで十分なのだ。

犯行の責任を社会全体に求めるためのギミックとして、マンガに巧妙に組み込まれた「社会が悪い」「女性蔑視の風潮が悪い」というレトリックは、なんら論理的必然性のない、ただの我田引水、牽強付会にすぎない。

容疑者の「女性から見下された」という自供を素直に解釈するならば、女性への蔑視ではなくて、むしろ(勝ち組)女性から受けた、容疑者主観での「蔑視」のほうが動機の説明としてよほど合理的だろう。

ところが、である。

「女性」を責任の主体に含めることを避けるために、強引で不自然な論理操作を行って、「社会」全体の問題だとした上で、あべこべに「男性の女性蔑視」こそが問題だと結論しているわけだ。

もちろん、悪いのは女性への加害行為そのものであって、加害者の身勝手な動機は犯罪を正当化するものではない。

過去にどのような経験があろうとも、「女性性」全体への憎悪を膨らませ、容疑者と何の関係もない被害者女性を傷つけたことは許されざることだ。

まして、被害者女性の側に責められるべき点は寸分もない。

だが、そのことは、容疑者の自供にない「社会全体の女性蔑視」なる無関係なものの告発に、事件を都合良く利用して良いことにはならない。

もしもどうしても、容疑者の女性への憎悪が社会全体の問題として考察されるべきだという立場にこだわるのであれば。

まず、次のように「男性への蔑視」を煽り立ててきた思想について、批判的・反省的に言及するのが筋ではないだろうか。

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このような思想を「女性の素直な本音」として語る人々を温存しながら、なお、

「女性は男性であるあなたを見下してなどいない」

「女性の男性蔑視など存在しない」

「フェミニズムは憎悪と戦っている」

と言いうるだろうか。

もう一度、よく考えてみてほしい。


以上


青識亜論