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仏教の才能

仏教というのは宗教なので建前上はあらゆる人を救う教えです。その傾向は後代にいくほど強くなって、開祖のブッダはより超越的で絶対的な救済者へと祭り上げられ、逆に信者の努力は否定されるようになりました。

これは世俗化の過程で十分理解できるものなのですが、初期の方の仏教はかなりクールで、相手の仏教的な才能の度合いによって、明らかに異なる内容を説いています。もちろんそれは外からみた見方で、ブッダ自身は単純にその人に最適な言葉を投げかけただけでしょうし、質問に答えただけでしょうが、結果的にはそうなっている。

この聞く人の才能の種類は後の研究で色々分類されているのですが、例えば分かりやすいものとして「信仰」という才能が挙げられます。まぁこれは当たり前すぎるかもしれませんが、信仰に篤くブッダの言ったことに素直に耳を傾け実践する人は悟りやすい、という感じです。その他にも集中力に優れているとか、仏教的な思考(例えば縁起への理解)ができる人は、悟りに向かいやすい。まぁこれらも当たり前ですね。

で、世の中の人を見ると、こういった才能に恵まれている人が結構いるんです。文章を読んだだけでもセンスを感じたりします。テーラワーダ仏教国ではそういう子を見つけたら出家させようとするみたいですけど、日本ではそんなわけにもいかないのでただ「才能あるなぁ」と眺めています。


しかし省みてみると、才能という意味では私は全く恵まれていませんでした。信心もないし、集中力もないし、智慧もない。

ただし、一つだけ期間限定でカンストした能力がありました。それは仏教の言葉でいうと「精進」平たくいうと「やる気」とか「気合い」とか…古い言葉ですが「ど根性」です。

今でもなんであんなに頑張れたか不思議なのですが、過酷な状況をど根性の一点突破で切り抜けてしまったんです。

だから、少々人に仏教を勧めづらいところがあります。なぜかというと、めちゃくちゃ努力をしてしまったからです。血反吐を吐くような。そしてその過程があまりに壮絶すぎたので、気軽に人に勧める気になれないのですね。

ここは小さいうちからしっかりとした教育を受けて、地道に修行して自信を持って教えを説いている、僧侶の方とは違うところです。
彼らは仏教的な価値観に全く疑いを持っていません。それが人々にとって困難であることは重々承知だとは思うのですが、立場もあって教えることにも抵抗がないように思います。

私は世の中の全ての人間に仏教が絶対必要だとは思っていません。ただ一方で私のように仏教でしか救われない人がいて、そういう人にとっては仏教を知っているか否かは生死に関わるようなことだと思っています。

だからこそありがたい道徳だとかではなく、呑気な救済論ではなく、今ここで本当に「悟れる」本物の仏教をそういう人に伝えたいのです。

そして現代日本においてどれだけ困難でもその道を歩き続けることができるのは、才能がある人ではなく、自身の「苦」をまっすぐ見つめ、対峙し続けることができる、苦しみもがき続けてきた人だけだと思っています。

読んでいただきありがとうございました。

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