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仏教にまつわる誤解 「苦」じゃない

今回はかなり身も蓋もない話をします。気楽に読んでいただけたらと思います。

仏教といえば人々を苦しみから救う教えだと思われています。そしてそれは間違いではないし、私自身も救われた人間なのです。しかしちょっとこの「苦」というのが日本人の仏教理解を歪めている気がします。

ご存知の通り仏教はインドで生まれたものです。その教えの古層の資料を保存しているとされる経典はパーリ語という古代インドの一方言で書かれています。このパーリ語のドゥッカ(dukkha)の漢訳語が「苦」です。違う文化から翻訳したものなので仕方のないことなのですが、この訳はちょっと微妙だと思っています。なぜかというとドゥッカには漢字の「苦」にはない意味が含まれていて、それが仏教理解には重要だと思うからです。

dukkhaというのは原義としてはdu(”悪い”を意味する接頭語)kha(空白、空き地)で「虚しさ」や「空虚感」などの精神的、あるいは観念的な「苦しさ」も含意するものです。
例えばシッダッタ王子が出家を決意したとされるいわゆる「四門出遊」のエピソードから読み取れるのは、観念的な「虚しさ」ですよね。なぜなら彼は王子で才能にも容姿にも家族にも恵まれ、身体的にも精神的にも「苦しみ」を感じたことがなかったからです。それが老人と病人と死人を見て人生の「虚しさ」を知り、最後に目にした出家者に希望を抱き出家する。勿論この話は寓話として出来すぎているので創作だととる人もいる(インド仏教再興の祖アンベートカルとか)と思いますが、こういう「虚しさ」というのはある程度古代インドで出家し修行する人に共有されていたマインドだったと思うんですよね。

このような悩みは、誤解を恐れずに言えば贅沢で高踏的な悩みです。庶民でなくエリートの悩みなんですね。庶民はそんな「虚しさ」ではなく現実生活において必死に「苦しんでいる」わけです。
だから教えのコアな部分はあまり当時の庶民には理解されなかった。ブッダの説くような修行をする意義が見えなかったんですね。それは歴史を通して現代までずっとそうなのです。

でもこの「虚しさ」というのは現代人の方がよくわかるかもしれないんです。なぜかというと、物質や健康的な面では古代インドの貴族以上に満たされているからです。どれだけ満たされても満たされ切らない、求めても求めきれない、そういう、とどまるところを知らない人間の性質がブッダの看破した本来の「苦」なのです。

ただしそのような人間の性質を話す人はたくさんいるんですよ。ちょっと気の利いた人であれば気づくことではあるのです。でもどうしたらそこから抜け出せるかを具体的な方法込みで教えている人はいないんですね。だから言われたからといって、どうしようもなくて人間に対して悲観的になるしかない。でも仏教はそういった人間のどうしようもなさから抜け出す方法を示しているんですね。
仏教はなんとなく「苦」だとか「無常」だとか言って暗いイメージですけど、全然暗くないんですよ。だってちゃんと解決する道を示しているのだから。

人間は自身を苦しめてしまう、不満足を抱えて生きざるを得ません。それが人間が生物として進化の過程で獲得してきた基本的な性質です。しかし、その性質を変える方法があるのです。

それは人間という種の進化を可能したと言えるかもしれません。驚くべきことに既に2600年も前にそのような方法を発見していた人がいるのです。しかし、その方法の真価がずっと理解されず特定の宗教の理想を実現するための修行法だと思われていたのです。

残念なことに現代においてもそれが理解されることはないでしょう。それでも説き続けなければいけないと思っています。ほとんど誰にも理解されないとしても理解してくれる人がいることを信じて。

読んでいただきありがとうございました。


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