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仏教のしあわせ

仏教の「悟り」について説明しようとするとどうしても難しい話になりがちです。

今回はちょっと趣向を変えて軽いエッセイのような感じで仏教の目指す「しあわせ」について書いてみたいと思います。この「しあわせ」は「悟り」の後に現れてくるものです。

仏教の教えというのは「苦」だとか「無常」だとかなんとなくネガティブな印象の言葉が中心に置かれることが多いですよね。
あとは「諦(あきら)める」とか「受け入れる」とか困難に対してどう対処するかということに言及することが多いのですが、どうも説教くさい。

それで今の人はどういうお話に救いを求めているのかなとAmazonの社会・思想のランキングを見てみると、実業家や学者さんの本に混じっていわゆるスピリチュアルな世界を取り扱った本がいくつか入っているのです。

今は精神とか心の問題に関しては宗教よりもスピリチュアルな本の方が人気なようです。その中で試しに「願望実現」というようなことが書いてある本を読んでみました。そうしたら結構いいこと書いてあったんです。正直これは敵わないな、と。世の中の人は現実をポジティブに捉えてなるべく楽しく豊かに暮らしたい。そのために神様だとか超越的な存在も信じるようなのです。そういう方々にいきなり「苦」だとか「無常」だとか言っても通じないのは当たり前ですよね。あまり役に立ちそうにないし面白くない。

どうしようかな、なんて思っている時にふと思ったんです。
私が実現したい願望ってあるかな、と。結構探してみたんですが「ない」
もちろん、ここでこんなことを書いているくらいですから、仏教の悟りについて知ってくれる人が増えたら良いとは思いますが、それも絶対実現したいとかではないし…願望自体がないんですね。

というのも特に現状に不満がないからなんです。不満がないので、願望もない。何もしていなくても結構しあわせなんですね。
何かが得られたから何かが叶ったからしあわせなのではなく、不満がないから何をしていても何もしなくても「しあわせ」

これはいわゆる少欲知足というような状態…でもないんですね。まぁ欲は少なく足ることも知っているのですが、普通少欲知足というのは他の誰かや世の中の様子を見た上で、身の程を弁えて慎ましく暮らしている状態のことを言います。私の場合人や世間との比較は関係なく、単純に不満の元がないために欲がなく満足しているということなんです。

なんだか伝わりづらいし地味ですね。ただこれが私の経験した、今まさに経験している仏教の「しあわせ」です。

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