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映画「魔女の宅急便」から読み解く手塚治虫と宮崎駿

はじめに

ここにあげる文章は以前yahooの映画レビューに投稿したものを再掲するものです。今、読み返してみて、さほど悪い内容ではないし、後世に伝えておきたいという思いからリブートします。まあ、yahooでは700ビューで2つくらいしか「お役立ち」がついていないので、それほど求められている内容ではないのかな、とも思いますが。

とりあえず、知っていることを記録として残しておきます。(間違い、勘違いがありましたらご指摘ください。)

「魔女の宅急便」

言わずと知れた宮崎駿監督作品。公開が1989年。当時はクロネコヤマトとのタイアップと言うことでも話題に。その前に公開されたジブリ作品である「ナウシカ」や「トトロ」でも一部ファンから圧倒的な支持を得ていたものの、一般大衆に対してブレイクしたのはこの作品からかな、と記憶している。

「もののけ姫」や「千と千尋」のように明らかにメッセージを持つ宮崎作品と比較して、本作はエンタメ度が高く面白いが奥が深くない、と思われるかもしれない。
でも、本作は宮崎作品にしては珍しく、宮崎氏本人の極めて私的な物語が含まれていると思う。これからその理由について述べる。

手塚氏の逝去と宮崎氏の弔辞

1989年、日本の漫画界のパイオニアである手塚治虫氏が亡くなった。当然のことながら、巷には手塚氏を惜しむ著名人、アニメ、漫画界関係者の弔辞で溢れかえった。その中で異彩を放っていたのが宮崎氏の寄せた弔辞だった。正確には覚えていないが、「僕らの仕事の土台を作ってくれた人だが、彼(手塚氏)がアニメについて語ったことは全部デタラメだ」というような内容だったと記憶している。私はこの弔辞を読んで、何もわざわざ死人に鞭打たなくっても、誰だこの人?と思ったものだ。そう、この時点で私は宮崎氏のことを知らなかったのだ。そこで調べてみるとNHKのアニメ「未来少年コナン」の演出をしており、また私はコナンの大ファンだったのだ。

手塚氏は、「鉄腕アトム」で日本産初のアニメを立ち上げた人でもあるが、その生涯を通しては、アニメで成功したとは言い難い。むしろ後年のものはかなり酷かったと言っていいだろう。同時に連載していた何本もの漫画との出来の落差が激しかった。宮崎氏の放った弔辞は的を得ていたのだ。これは後で知ったことだが、どうしてもアニメをやりたかった手塚氏は、低予算で仕事を引き受け(これが後の虫プロ倒産の引き金となる。)、アニメーター達の賃金含めた劣悪な労働環境をスタートさせてしまった。ジブリ以前に東映のアニメーターであった宮崎氏は当時バリバリのマオイスト(毛沢東主義者)であり、労働組合のトップでもあったので、手塚氏のことが我慢ならなかったのであろう。

そして魔女宅のあるシーンで

しかし、実は宮崎氏は手塚氏の背中を追っていたと私は考えている。それが、「魔女宅」のあるシーンにつながるのだ。キキが魔法が使えなくなり、森に住む放浪画家のウルスラに会いに行くシーンがそれだ。ウルスラは夜キキにこう吐露する。「私も絵が描けなくなったことがある。自分の描く絵は誰かの真似でしかない。だから、それまでに描いていた絵を全部燃やした。」と。これは、宮崎氏の実体験である。宮崎氏は明には語っていないが、ここで語られる「誰かの真似」の「誰か」は手塚氏のことではないだろうか。

この漫画とアニメの二大巨匠は、残念ながら、手塚氏の早逝によって相まみえることはなかったようだが、手塚氏の方はどうも「ナウシカ」は見ていたという話も聞く。しかも、あんな映画をつくりたかったととても悔しがっていた、と。その気持ちは痛いほどよくわかる。

私は今でもこの「魔女宅」が大好きな宮崎作品である。素直に楽しめるし、やはりキキとウルスラが語り合うシーンが印象に残る。優れたクリエーター達の産みの苦しみが、このシーンに凝集されている気がするのだ。

参考情報

※1: 本文中にある「宮崎氏が自分の描いた絵を燃やした」ということが書かれている本が確かこの本でした。

※2: 冒頭の絵は、魔女宅劇中でウルスラが描いたシャガール風の絵。実は、八戸市立湊中学校養護学級の共同作品「虹の上をとぶ船」とのこと。

※3: 手塚氏の最期の言葉が「仕事をさせてくれ」でした。ほんとにすごい人だわ。

※4: 宮崎氏が手塚氏に対して、猛反発したエピソードがある。手塚氏が確かアニメである登場人物を死なせることにした。スタッフにその理由を問われた手塚氏は、「その方が感動するからだ」と答えたという。宮崎氏は、これについてはかなり違和感を覚えたようだ。そのためか宮崎作品では悪人と設定されている人物でも死ぬことが少ない(ように見えません?笑)。

追加(2022年4月29日)


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