地元の友人

やあ諸君、音山だ。

「地元」についての見解・自論を展開していきます。気分を害した方はすみません。「地元」とは、時に幸せであり、時に笑いや涙を生み、時に毒であると音山は考えるのであります。その心は、「地元」は一番身近で自分を理解してくれるモノであると同時に、とても閉塞された電波の届かぬ別荘のようなモノであるからです。その居心地の良さに我々はついつい身を委ねてしまい、気づいた時には依存し離れられなくなっています。変哲のない仕事を愛し、大それたコトをせず、出会いがあれば家族を作り、その地でただ平静に暮らしていくのであれば問題はないと思いますが、何かを成し遂げたい人にとっては「毒」となり得るドラッグと化すでしょう。

最近気づいたコトがあります。僕は地元に友達をほとんど持っていません。まあいるけど、よく会う友達は1人もいない。それでも尚、人は、音山は、日常的に遠くにいる友人と会い、会いに行き、幸せで何の生産性もない時間を過ごそうと必死です。それがもしも地元に友達が沢山いたらどうなっていただろうか。毎晩のように飲みに繰り出していたのではないだろうか。僕はバンドを組んでいないのじゃないか?音楽をどこかでやめていたのではないだろうか?言いづらいですが、過去に共に音楽を志していた友人が何人もいました。今も続けている人はほとんどいなくなってしまった。その中にも「異常に地元を愛している」人は幾人かいたんですよね。ある日、その人にとってきっと大切な日になるイベントやライブがあって、僕たちはこぞってそこに集まった。けれどジモティウスは来ませんでした。理由は「今日は地元で遊んでいる。」それは決して悪いコトではない。なんなら音楽を志す必要も全くない。けれどどうしても恐怖を抱いてしまった自分がいました。なぜならば、その日ジモティウスは特別誕生日や何か一大イベントがあったワケでもなし、毎日のように遊んでいる友達と、行き飽きたいつもの居酒屋に行って、特に話すコトもなく、ただ何となく集まって、何となく帰った。ただそれだけでした。いくら地元が幸せだとは言え、その子は「音楽で食べていく」と豪語していたし、あくまで主観でしかないけど僕らミュージシャンにとって大事なイベントは、幾度とあった。けれど同じような理由でほとんど来たコトはなかった。

まあここまで書いていると「いやホンマにその子は地元で遊んでいるのが楽しくて堪らなかったんちゃうん?」と言いたくもなるだろう。わかります。俺も書いていてそう思った。はは。けれどねえ。幸せじゃなさそうなのよねえ、表情(かお)が!!「音楽したかったけど、やっぱこっちの方が幸せ」って言ってくれたなら、俺も納得するわよ?けれどねえ。「私には才能がなかったから、なれなかった」って言うのよ。That's why I reckon the ZIMOTO is kinda drug.

今自分が愛しているモノ、時には友人や恋人さえも、本当に心から大切にしているモノなのか考える必要があると思った。もしかすれば、今自分が本当に頑張りたいコトから逃げるための言い訳・逃げ道になっているコトもあるかもしれない。

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