批判と人間と文学と愛

「お前分かってないな」
誰しも感じた事があるのではないでしょうかこの感覚。皆んなそれぞれ得意分野があるじゃないですか。趣味じゃなくて遊びじゃなくて、食い扶持にしている仕事においての話です。例えば僕の様に、趣味が仕事レベルに真剣なものになりつつある時、趣味においても「お前分かってないな」と感じる時があるのですが、大抵の人は仕事が忙しいですから、趣味は束の間の心を癒やしてくれる遊びでしかないんですね。こうなって来ると、趣味は自分を肯定してくれる“絶対的擁護者”にしかなり得ないのであって、すると批判精神が全く働かないのであって、自分が持っている現状の感覚や知識を代弁してくれる存在にどんどん飛びついていってしまう訳です。
批判精神というのは、他から見るとなんとも鼻持ちならない不遜で生意気な精神なんですが、場合によっては、どんな未熟児でも最初の殻を突き破るに用いる不可欠なきっかけを与えてくれるものです。自分というちっぽけな存在を意識した瞬間、それは他者との違いを認識した瞬間であり、この瞬間に誰しもが抱き得る精神なんだろうと思います。自分と周囲の間に感じた差異が実はフィクションに過ぎない、ちゃんと探せば自分の内面のどこかにあって、だからこそ本当は大した差異なんて存在しないんだという発想もこのさき生まれ得るのですが、僕が今回問題にしたいのは導入部分であって、それに絞って論じてみたいと思います。
僕は昨日、文藝春秋デジタルにある『浜崎洋介×與那覇潤「日本人にとって村上春樹とは何か」』という動画を拝見させて頂きました。YouTubeにも一部落ちているのですが、フル動画となると文藝春秋デジタルに入会しないと駄目なので注意が必要です。僕は村上春樹を読んだ事がないので、彼の作品をここでどうこう言うつもりはありません。ただ、浜崎洋介さんという方は知っているので彼の論じ方に注目させて頂きました。僕は以前に、作家による村上春樹論を聞いた事がありました。その時もその時で為にはなったのですが、作家目線だと正しい答えに拘り過ぎちゃっているというか、確かにそれが一番大事ではあるのですが、その糸口をまずは知りたいというか、文芸批評家の切り口を知る事でそれをさらに批評出来ると良いなと思った訳です。初めからそんな筋道を認識していた訳ではありませんが、人の話を聞いてると「それってどうなん?」という意識が多々働くのでそれを活用してみようと思った訳です。
浜崎さんは村上春樹に批判的でしたね。批評家ですからね当たり前ですね。彼も読んでる最中に「それってどうなの?」と感じながら読むらしいです。逆に我那覇さんは肯定的であった訳なんですがこれもこれで分かる気がします。というのも、やっぱり売れっ子作家さんは大衆心理を代弁しているからこそ売れるのであって、村上初心者を自称する我那覇さんに共振する部分が存在したとしてもなんの不思議もありません。
浜崎さんは色々論じておりましたが、僕が強引に纏めると村上さんも途上の人であるという事なのかなと。当初は物凄いニヒルであったと。言葉の力によっては他人に理解されないであろうといった諦めが現れていると言っていました。それから徐々に「信じる」という要素が入ってきて運命論者の感が最新作では出て来たと。ただそれはあくまで予感に過ぎず、「思いました」の段階であって、作中の人物を使って根拠を表現するには至っていないと言っていました。
「信じる」という要素なしで全てを相対化する行為、つまり、周囲を客観的に見つめる己の目は主観を表しているのであって、真の意味においては客観的ではないから、その枠組みから外へ出て自分すらをも客観的に、それをさらに客観的に、浜崎さんの言い方を借りれば「無限後退」する事によって、どこまでも回答を引き延ばす行為、全てに言い分は存在するといった寛容論がポストモダニズムなんだとも言っていました。この際村上春樹はさて置き、良い悪いも兎も角シンプルにこんな考え方があるのかと、素人の自分にとっては面白かったです。
実は何処かで「無限後退」とは密かに手打ちをして物語に終止符を打たなければいけないという小説上の暗黙のルールがあるにも関わらず、いつの間にか自分の「信じる」主観を用いているにも関わらず、それについては高みに置いて傷付けられない様に守っているという批判もありました。これについては、なんか不完全なポストモダニズムをより完璧なポストモダニズムによって批判しているみたいな、せせこましい感がやや否めなかったです。下手に相対化の技術を使ってしまうと、こんな風に批判されてしまうのかといった印象です。気を付けようと思いました。
あとは、現実感覚の喪失、故郷の喪失、漱石からの継続したテーマではあるのですがといった前置きのもと、浜崎さんの言い方を借りれば「精神と肉体の不一致(遊離って言ってたかな?)」が“信じる” “無意識”によって解消?されるところまで村上作品は行ったのですが、その後の現実世界をどう生きるかまでは描けていないと。小林秀雄の言葉も引用しながら、以降が本当の小説であって、それ以前は主観に過ぎないのだから実は詩なのであると申しておりました。ドストエフスキー「罪と罰」でラスコーリニコフが老婆を殺してからが勝負なのであると。
僕はここでもなるほどと思いました。この言い方だと、精神不安定者だけが故郷喪失の病を患っているかのようで少々不満を感じなくもないですが勉強になった事は確かです。確かに、あの傲慢なラスコーリニコフが手元に聖書を置いておこうという心境に達するに至った経緯と自身の変化の過程を描かなければ、読者の為にはならないだろうと思いました。
愛ではないですが、本当の意味において興味を浜崎さんに対してでなくても他人に持ち得る事は出来るのでしょうか。手放しの賛同は単なる承認欲求の現れであって、鼻持ちならない意地悪さこそ愛と興味の表れではないでしょうか。普段皆さんが仕事に向き合っている姿勢(真剣さ)をまだまだ人間には適用出来ていない。限りなく細分化されてきた現代ですから、世界のあらゆる人、もの、事象に適用出来るほどは到底時間が無いにしろ、批判精神を手始めに様々な見解を深めていきたいと僕は思っています。

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