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ザリガニは自殺しない

 よく川沿いの歩道を歩く。ザリガニの「爪」がいくつも転がっている。カラスがそこだけ食べ残すのだ。硬いんだろう。

 いつだったか、豪雨のあった数日後、まだ土砂で濁った水がごうごうと流れる小川の土手っぺりで、一匹のザリガニがカラスに完全にロックオンされた状態で「食われてなるものか」とハサミをめちゃくちゃに振り回している現場に出くわした。私は橋の上で立ち止まり、しばらくその様子を眺めた。
 カラスが私を見て「ちぇ」という顔をする。
「なんだって人間というのは食われるほうにばかり同情するのか。おれだって食わなきゃ死ぬんじゃないか。ちぇ」

 人間がこうして見張ってやっている間にザリガニは急いで川へ飛び込めばいいのだ。食われずに助かるではないか。そう思って私はカラスに睨みをきかせながら、グズグズするザリガニを見守っていた。だがザリガニはいつまでたっても飛び込まない。土手にしがみついて、ハサミを振り回し、窮鼠のごとくカラスに切り掛かろうというほどだ。いったいどういうわけか。

 それで思い付いた。あの濁った川に飛び込むということは、ザリガニにとっては自殺行為なのかも知れない、とーー。
 おそらくあれは豪雨で生き残ったザリガニなのだ。親戚も親兄弟も、みんな鉄砲水に流されて死んでしまったに違いない。土手にしがみついている。川に落っこちないように。落っこちたら待っているのは100%「死」なのだ。今はカラスに殺されそうになっているが、それでも死ぬ可能性は、川に飛び込むことに比べたら100%ではない。現に今、橋の上をヒマな人間が通り掛かって、カラスの奴を牽制してくれている。「おれは最後まであきらめない」

 ザリガニは自殺しない。動物は自殺しない。死にたがるのは人間ばかりだ。

 私が立ち去った後、おそらくあのザリガニはカラスに食われたことだろう。あらためて、歩道に転がる彼らの「爪」を見る。

 ーー見事なVサインだ。

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