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人間の致死率

 快晴。盛大に洗濯物を干す。窓辺に置いているテーブル付きのエアロバイクに乗って朝食をとる。ほとんど漕ぎはしない。疲れない程度に足をぐるぐるやる。血流が良くなるのだろうか、これがけっこう癒される。木々や野鳥を眺めながら、のんびりサイクリングしている気分にもなれる。(ヘルメットを被る必要もない)

 やわらかい日光が体に染み込む。秋だというのに私は食欲がない。めいっぱい呼吸すると、もう太陽の光だけでじゅうぶんな気がしてくる。光合成で生きていきたいような気がする。人間の体が食べたもので出来上がるなら、野菜ばかりを摂取する私の体は、ほぼ植物ということになりはしないかーー。

 窓ガラスに映っているのは私の顔だ。目は半開き。太陽は見てはいけない。目がつぶれてしまうから。ーーそう教えてくれたのは誰だったろう。
 直視しないように太陽から視線をずらして、まぶしさを頬で受け止める。あるいはまぶたを閉じて(そこにあると信じて)見上げる。片想いのような日光浴。これぐらいがいい。ほのかに何かに焦がれているくらいが。

 今日は午前中のうちに食料の買い出しに行かなくては。食欲がないとはいっても食べないわけにはいかない。どうしたものか。なんだったら食べられるだろう。豆腐。豆腐とキノコのスープ? トマトの缶詰とか。ワカメとか海藻なら好きだ。それに寝る前には温めた牛乳を飲む。そうだ、私の体が植物になりきれず人間の体裁を保っているのは、かろうじて牛乳を飲むからだ。(ーー本当に? 牛乳は牛を作るものではないか)

 生き物というのは「自分で殺せないものは食べない」という説を聞いて、なるほどなと思ったことがある。
 私は子供の頃から牛や豚を食べなかった。たまにチキンを食べるのは「鶏ならいざとなったら自分で絞め殺して料理できる」という感覚があるためだ。沿岸の町で魚介類を豊富に食べて育ったけれど、それだってイカや貝や小魚が中心で、自分で殺せないようなマグロなどの大型魚はほとんど食べたことがないし、やはり食べたいとも思わないのだった。スーパーで切り身にして売られていても関係ない。私には「自分で殺せないものは食べられない」というセンサーが備わっているようである。

 これは生きる上では「弱点」とも言える。年をとれば体力は衰え、そのうち鶏も殺せなくなるだろう。小魚さえも殺せなくなるかも知れない。自分自身がいちばん弱い者になって、牛のお母さんから乳を恵んでもらったりすることになる。私は死にかけている。
 いや、本当は誰もが死にかけているのである。我々の致死率は100%だ。助かる者はいない。わざわざ他を殺してまでメンテナンスするほど、肉体は頼れるものではない。ーーなんてことを考えていると食べることがすっかりバカバカしくなって、私の食欲はますます減退してゆくのであるが、仮にそのことで私がどんなに損をするとしても「最悪、皆さんより早死にする」というだけのことであろう。どうってことはない。むしろ、あっぱれだ。

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