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セミファイナル

 パリオリンピックも盛り上がっているようだが。私の周辺で盛り上がっているのは、もっぱらセミの皆さんである。

「ミ"ィィーーーーーー!!!」つって突進してくるでしょ。あまりの勢いに引ったくりかと思うよね。セミなんだわ。セミファイナル。
 地面に引っくりかえって、死ぬまえに一瞬、ブレイキンみたいな高度な動きをする。そしてピタリと、永遠に動きを止めるーー。


 数週間の命ってどんなもんかね。生まれたと思ったら、余命数日。その数日のうちにめいっぱい鳴き叫んで、激しい恋をして、子孫まで残すなんて、セミって能力高いな。まさにオリンピックよな。土の中で数年を過ごすのだそうだけれど、徹底的にシミュレーションしているんだろう。一生に一度の「本番」に全力を注ぐというわけだ。


 私はもう45年もこの世にいるが、まだ何事も成していない。セミに代わって土に潜りたい気分である。私はいったい、ここ(地球)で何をしているのか。異性に出会いたいとも思わないし子孫を残したいとも思わない。金が欲しいとも思わない。向上心がまるでないーー。
 人生なんて、たかが生まれてから死ぬまでの間の出来事である。飢え死にするならそこまでが私の人生なのだ。それで言うと、人間の寿命は長過ぎる。100年時代など、ゾッとするじゃないか。


 宮沢賢治も「死にたがり」だったようだ。
「我々はやるべきことをやってさっさと死んでゆこう!」
 そういう短命思想 (正しくは自己犠牲の精神とでも言うんだろう) を友人達と共有していたようである。37歳の若さで・・・などと言われるが、本人としてはもっと早く、大人にならずに死にたかったのではないか。人類など長生きしたところで地球に負荷を掛けるばっかりで、立派なことは何もないのである。自分の親を見ればそれが分かるのである。賢治は父親のような人間になりたくないがために、本当はもっと早く死にたかったのだ。


 そんな思想が正しいわけではないが、私も同じ考えに取り憑かれている。子供の頃からずっとだ。悪いことに、病弱だった賢治と違って、私の場合はどうやらまだまだ長生きしてしまいそうなのだーー。


 あと何十年生きようと私の空っぽの人生は、セミの数週間にも到底およばないだろう。足下で引っくり返って死んでいるこのセミより、私という存在は意味不明である。
 私のような人間が、なぜまだ死なずに生きているのか。しかも、どうしてこんなに健康体なのか。なぜ寿命を他にあげることは出来ないのか。なぜ他のために死んでやることは出来ないのか。

 なぜ、臓器を他人にあげてはいけないんだろう。目も、脳も、心臓も、子宮も、皮膚も、私には必要ない。体など邪魔なだけだ。
 煙のようになって、水蒸気になって、雨粒になって、ただ循環だけしていたい。もう何も考えたくない。人類失格。ーー土に潜ったほうがよさそうだ。


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