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『コロナ禍の下での文化芸術』2章「リモート演奏が突如、絶対的な決まりになった日」 その2「2020年6月中旬、再開されたフル編成オケ演奏会を聴いて」


『コロナ禍の下での文化芸術』
2章「リモート演奏が突如、絶対的な決まりになった日 〜 21世紀に盛んになった〈モノ消費ではなくコト消費へ〉という流れがコロナ渦でかき消された」
その2「2020年6月中旬、再開されたフル編成オケ演奏会を聴いて」


※参考記事
(演奏会評)「ハイドン・マラソン19」コロナ後初めてのフル編成オケ・演奏会の記録
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12605656856.html

ハイドン
交響曲95番ハ短調

交響曲93番ニ長調

交響曲97番ハ長調

管弦楽:日本センチュリー交響楽団
指揮:飯森範親
コンサートマスター:荒井英治
2020年6月20日
ザ ・シンフォニーホール

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(1)【テレビ映像と、生演奏の差】


まず、この演奏会はコロナ渦以降、初めてフル編成のオケの演奏会だったため、マスコミ各社が大々的に取り上げた。だが、現場では、観客としてはかなり迷惑な取材だったことを記しておく。
たったあれだけの尺の映像を流すために、演奏会全体の感興をぶち壊した。図で示すが、ステージ上のバルコニー席を、テレビカメラが合計4台(あるいは5台?)で占拠。

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チケット代を払った客であるこちらは、ディスタンスを取らされて、元々買った座席から移動までさせられて、窮屈な思いで聴いているのに、なんだあのテレビカメラの連中は?と、思わずムカついた。仰々しくテレビ収録した割りに、ニュースで流れたのはほんの数秒の演奏だけ。あれだけのためにこちらは貴重な演奏会を我慢させられたような位置で聴くしかなかったのか?と、理不尽な怒りが湧いた。
そもそも、いくらテレビカメラでももっと目立たない形での収録は可能なはずだ。実際、関西フィルのテレビ収録などは、限りなく目立たない形で行われている。今回の無作法なテレビカメラたちは、報道だから文句ないだろう?との傲慢さがはっきり表れていて、非常に不愉快だった。報道姿勢が実に平凡で、そのくせ偉そうだ。
例えば、今回のテレビカメラはクラシック演奏会だが、同じパターンで、ライブハウスでのライブがコロナ後、初めて大々的に再開されるのを報道しようと、テレビカメラが大挙して有名アーティストのライブに入りこんだら? 本来ならチケットを(それもプラチナチケットを)買った人しか味わえないはずのライブに、テレビカメラが傍若無人に入ってきて、一番いい場所を占拠していたとしたら? 音楽ファンは怒りを覚えないだろうか? それとも、コロナ後初のライブというニュースバリューのためならしょうがない、と認めるだろうか?
今回のハイドン・マラソン演奏会へのテレビカメラの乱入は、それと全く同じことなのだ。
今後、もっと考えていかなければならないだろう。特に、演奏側、興行主側からは、報道に対して反対することは難しいのだから、観客の側、一般の側からマスコミに抗議の声をあげる必要がある、と思うのは、筆者だけだろうか?
ただ、企まずして体験したこのテレビカメラへの怒りの感情は、そのまま、生演奏と映像記録のせめぎ合い、矛盾、対立構造が顕著に表れた事例とも考えられる。つまり、音楽の生演奏の持つ一回性、一期一会と、映像収録や録音による再現をどこまで許すべきか? どこまで再現可能か? という20世紀音楽文化を揺すぶってきた問題が、ここへきてまた再燃するかもしれないということだろう。

※テレビ報道の特集で、日本センチュリー交響楽団の演奏会再開への苦闘ぶりを取材していた

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さて、今回、コロナ後初めてフル編成のオーケストラ演奏会を体験した印象から、今後のクラシック音楽、音楽ライブの行方を考えてみたい。


(2)【観客と演奏者、興業側の立場の差】


まず、コロナ渦中でのオーケストラ演奏会をどう開催するべきか? を考える上で、これら3者の立場がそれぞれあることを見落としてはならない。
観客の立場としては、コロナ危機がくる前、2020年2月中旬までは、まさか今年の演奏会が何もかも聴けなくなってしまうなどとは想像していなかった。その急転直下ぶりは、本稿の1章に詳述した通りだ。

※参考

連載エッセイ「コロナ禍の下での文化芸術2020」プロローグ
https://note.com/doiyutaka/n/n7590305397f5

1章「2月下旬の政府によるコロナ対策のイベント中止要請や、安倍総理による全国一斉学校休校の影響で中止・延期になった事例」
https://note.com/doiyutaka/n/n3a715c4a552a


筆者など、今年は贔屓の関西フィルの50周年で記念プログラムが目白押しだったため、どの演奏会のチケットを買うか、どれを諦めるか、と迷って迷って念入りにチケット購入していたのだ。また、めずらしくも、関西フィルと日本センチュリー響でそれぞれ、マーラーの交響曲(関西フィルは6番、センチュリーは1番)をやってくれるので、比較して聴くのも楽しみだった。
だが、2月下旬以降、待ち遠しかった演奏会が次々と延期、中止になっていった。
こうなると、実のところ、今後の演奏会の予約をどうしようか? と迷うのが本音だ。今現在、各楽団のHPでこの先の演奏会のスケジュールをみながら、どれが延期に? どれが中止に? と不安になる。
これが聴きたい! とチケット予約しても、またもや中止になるのでは? と神経が苛立つ。
筆者自身、実のところ、コロナ危機に苦しむ贔屓の楽団を応援しようと思って、急遽予約した夏の演奏会が、その数週間後、あっさり中止のお知らせを受けてがっかりする経験を数回した。
また、以前予約していた演奏会が直前になって中止になり、予定が狂ってしまったりもした。
現在、予約済みの演奏会が、はたして無事に実施されるのか? それとも、実際に6月20日に実施された日本センチュリーの事例のように、せっかく予約していたのに一旦払い戻しになり、改めて別の、ソーシャルディスタンス配慮の座席を購入し直す、ということになるのでは? と不安が募るのだ。しかも、センチュリー響の場合、最初の事例だからやむを得ないのだが、買い直したチケットをさらに、電話で座席の交代を頼まれるという非常事態の対応だったのだ。今手持ちのチケットの演奏会も、このままコロナ危機が続くようだと、やっぱりチケット買い直し&座席移動、になるのでは?

※ソーシャルディスタンスをとった座席

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一方、演奏者の立場は、また興業側はどうだろうか?
これはもう、マスコミ報道でのインタビューを聞いても、ネット上で演奏者たちが思いを書いているのを読んでも、とにかく切羽詰まっているのは間違いない。コロナ危機の3ヶ月半、演奏者側はギリギリのところに追い詰められつつある。それは興業側も同じだろう。このまま、いつまでコロナ危機が続くのか? が未知数であるため、どのように演奏活動を再開していくべきか、文字通り手探り状態だ。
この危機を乗り越えるために、リモート演奏の配信、という試みが多数、行われてきた。それらのネット配信音楽は、確かにリスナーを鼓舞し、音楽のありがたさを痛感させる効果があった。
だが、ネット配信は現状、生演奏にはもちろんのこと、スタジオ録音された演奏音源にも遠く及ばない。技術的な進歩でいずれ、録音音源にクオリティを近づけることはできるのだろうが、生演奏に匹敵することはまず不可能だ。
だから、特にクラシック音楽の場合、ネット配信にどの程度課金できるか、というのは悩ましい。少なくとも現状では、配信が録音音源や生演奏のチケット代の代わりをつとめるのはまだまだ無理だといえるだろう。


(3)【ハイドンだからできたが、これがロマン派なら? 近代管弦楽なら?】


※日本センチュリー交響楽団「ハイドン・マラソン」

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先日の日本センチュリー響の場合は、ちょうど「ハイドン・マラソン」の演奏会が、これまでの会場であるいずみホールからザ ・シンフォニーホールに会場を移す最初の回だったことが幸いしたといえる。もしいずみホールだったら、サイズ的に、ソーシャルディスタンスを確保するのは難しいだろう。観客数も、シンフォニーホールの場合よりもっと減らさなければなるまい。
曲目がハイドンの交響曲3曲、というのも幸いした。演奏人数の面でも曲目を変更せずに済んだからだ。それでも、元々予定していたホルスト『第1組曲』の吹奏楽小編成による演奏は、カットされた。おそらく吹奏楽器を必要な人数、ステージ上に並べるのは、ソーシャルディスタンスとの両立が無理だったのか。

※シンフォニーホールのステージ上の楽器配置

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ハイドンばかりの演目だからフル編成のオーケストラ演奏が可能だったのだが、これがベートーヴェンなら、どうだろう? 少し編成を減らさなければ無理だろうか? それ以降のロマン派交響曲や管弦楽曲、さらに後期ロマン派以降の大編成曲は、当分、演奏できまい。どんな広いステージでも、一般的なクラシック音楽のホールでは100人近い奏者を、ソーシャルディスタンスを保って並べるのは不可能だ。
あるいは、アリーナ会場で、演奏者を会場の中央に間隔を空けて並べて、音はマイクで拾ってPAを使う、というのなら、演奏可能だろう。だが、ドームでPAを使って演奏するマーラーやブルックナー、ワーグナーの楽劇など、はたして聴きたいだろうか?
コロナ渦中のオーケストラ演奏は、まだまだ課題山積なのだ。


(4)【合唱は可能なのか?】


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