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土居豊のエッセイ【関西オーケストラ演奏会事情 〜20世紀末から21世紀初頭まで】 第2回《忘れられた作曲家・大澤壽人 〜モダニストの限界〜》(文芸同人誌「関西文学」より転載)


土居豊のエッセイ【関西オーケストラ演奏会事情 〜20世紀末から21世紀初頭まで】
第2回《忘れられた作曲家・大澤壽人 〜モダニストの限界〜》(文芸同人誌「関西文学」より転載)


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2002年に、故・芥川也寸志の志を継ぐべく結成されたオーケストラ・ニッポニカは、音楽監督の本名徹次の意欲的なチャレンジとして、現代の日本人による交響作品を紹介するプログラミングで注目を集めている。2006年3月、リフレッシュ工事の済んだばかりの大阪・いずみホールに、『昭和9年の交響曲シリーズ』と銘打って、大澤壽人(おおざわ ひさと)の交響作品を集めた演奏会が行われた。
まず、忘れられた作曲家というべき大澤壽人について、いささかの紹介をしたい。20世紀初期にヨーロッパで高く評価された作曲家・演奏家といえば、貴志康一の名が浮かぶだろう。こちらも再評価の途中なのだが、同じく神戸出身で、1930年代のパリで自作の交響曲を指揮して絶賛されたのが大澤壽人である。10代でアメリカに留学し、名門ボストン大学とニュー・イングランド音楽院で学位をとっている。日本人として初めてボストン交響楽団を指揮して自作を演奏したというあたり、長くボストン響を率いた世界的指揮者・小澤征爾の大先輩といえるだろう。その後、フランスに渡り、パリのエコール・ノルマルでナディア・ブーランジェに作曲を学んだのは、当時の最高の作曲技法を学んだといってよい。フランス近代音楽を代表する一人だったデュカスにも教えを受け、オネゲルに作品を絶賛された。ルーセルやイベールとも交流したという。
パリでの活躍ぶりは華々しく、自作の交響曲やラヴェル、ベルリオーズの作品を、コンセール・パドゥルー管弦楽団のコンサートで指揮して高い評価を得ている。帰国後は、東京で新交響楽団(現・N響)、大阪で宝塚交響楽団を指揮して自作を次々と演奏していった。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったのだが、第2次大戦をはさんで、戦後は多忙な仕事に追われ、46歳の若さで病没した。その後、長く忘れられることとなったのである。
今回の演奏会では、大澤の作品から、1934年にパリで作曲された『交響曲第2番』と、『ピアノ協奏曲第2番』『ソプラノとオーケストラのための「さくらの声」』を取り上げている。
さらに、関東が拠点のオーケストラ・ニッポニカに対抗するかのように、大澤の地元である兵庫県立芸術文化センターの管弦楽団が、芸術監督の佐渡裕の指揮で大澤作品を取り上げている。関連企画としても、同センター小ホールで『大澤壽人とその世界』と題して、二日間にわたり室内楽作品と歌曲を取り上げている。特に、ピアノの藤井由美とマイハート弦楽四重奏団による『ピアノ三重奏曲』『ピアノ五重奏曲』は、おそらく日本初演である。「おそらく」というのは、演奏記録がないからわからないということらしい。ますます幻の作曲家らしいではないか。
さて今回私が聴いたのは、オーケストラ・ニッポニカの演奏会と『大澤壽人とその世界』の室内楽演奏会である。その印象から少し述べる。
初めて聴いた印象は、和洋折衷の近代日本の都市をみるようだった。歴史の本に載っている昔の日本の都市を写したセピア色の写真の中の雑踏の雰囲気。
大澤の交響作品は、文字通り近代日本を体現したものである。明治維新以後急速に吸収されてきた洋楽が、大澤の生まれ育った大正期の阪神間に根付きつつあった。天から舞い降りたような一人の優れた才能は、20世紀初めの30年そこそこで、西洋音楽の古典から近代の最先端の音楽へと駆け抜けた。駆け足で全てを吸収し、習ったことのありったけを、おもちゃ箱をぶちまけるように作品にちりばめた。和魂洋才の申し子といえる。
だが、その反面、厳しい聴き方をすれば、自らの才におぼれているようにも感じられてしまうのだ。

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/