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【#父の日】父の口癖「なんとかなるさ」の裏側をいま知るとき

「#父の日」ですね

今日は少し僕の父のことを
父は、会社員から独立して印刷業を営む事務所を構えていました。

若い頃は岩田屋で働いていたらしいですよ。
実は母も。
なので、僕は(福岡市天神の)警固生まれなんですよね。(僕も警固界隈?)

印刷会社に入った父はそこでノウハウを学んで独立
熊本県を経由して佐賀県に引っ越して事務所を開きました。

そうやって僕ら三兄弟を育ててくれました。

僕ら三兄弟はそれぞれ無事に大人になり、
三人とも結婚し、子供もいます。
いまでは、8人の孫(もうすぐ9人なっちゃう)がいるという

父と母は少子化の日本において多大なる貢献をしたのではないでしょうか。
(岸田さん、父と母と妻に3兆円ずつください)

次男はいま「支配人」という肩書きで職場トップとして毎日忙しそうにしています。
三男も某有名な緑色のアイコンのSNSの会社で海外ゲームの仕事をしているらしいです。
すごいよね。兄弟の中でいちばんの秀才です。

長男の僕はなんとか中年でJTC滑り込みで仕事をしていますが一番ダセーかもしれないな。まけんぞ。

とまぁ、はたからみれば至極真っ当に社会人をしているのではないでしょうか。両親のおかげです。

誰もグレず道を外さず、僕ら三兄弟はお天道さんに向かってまっすぐに生きています。そう、父のように。

僕は子がうまれて、初めて子供を三人育てるってすんごく大変だと実感中です。
もちろん、母の辛抱強さもあってのことだとはわかっているけど、
今日は父の日にちなんでだからね。父の話。

実家は正直裕福ではありませんでした。
お金はなかった方でしょう。
食べるので精一杯です。

僕は部活を続けるためにバイトなんかもしておりました。

父も事務所が大変な時も追加で仕事を獲ってきてやるなどやりくりをしてきました。僕らのために。

なんでこんなに貧乏なんだろうと思わなくもなかったですが、
僕はバカなんでね。毎日が部活で忙しくてあんまり考えていなかった。
すごく親に甘えていたということでしょう。

大人になってから、母から聞いたのは父はお金の面についてはなんとか苦労させまいとしていたとのことでした。
そして弱みを僕らに見せないと腹に決めていたらしいです。

受験とか塾とかもそうです。できるだけやらせようとしてくれたみたいです。
僕が私立大学に行ってしまったことで、一つ下の次男にはお金が回らず進学を断念させてしまいました。
本当に申し訳ないことをした。
次男は高卒で就職することを選びました。

僕ら親子は仲が悪くなることもなく今でも仲がいいです。
なので、案外いろいろと自分のことを親に共有してたりもします。

言わなかったのは恋愛事情くらいだろうか。

勉強や部活、仕事で悩んだり、
うまくいかないことがあったりといろいろと話すときには

父はだいたい
「人生何とかなるから、俺はなんとかなってきたし、どうにかなるのよ」
と言っていました。

今ならわかります。
父は、「自分でなんとかしてきた」のだと。
そこに裏付けられた「なんとかなるさ」なのだと思います。

だから僕も、「人生なんとかなる(俺がなんとかするから)」と思うようにしています。
そんな僕が「問題を解決する」ことを主体とした業務に携わっているのは不思議なことではないのかもしれませんね。

こちらの記事にあるように、
僕は父から「お前は運がいい」と言われて育ちました。

その通りだった。

僕は運がいい。
たぶんしこたまいい。

この両親に生まれて、弟たちと一緒に育ち。
妻に出会い、子供たち恵まれて、これらは僕のなんの努力でもなく、運がいいとしか言いようがない。

そして今なお僕は元気で五体満足(ちょっとメタボ注意)だ。

父はわかっていたんだと思う。
僕の周りに運が巡っていることが見えていたのかもしれません。
だから大丈夫といっていた。
道さえ外さなければ。

父は僕ら兄弟のことちゃんとみている。
いつもは物静かな父だが、
ガッツリと性格について指摘を受けたこともある。

ぐうの音も出ないほどに正確に指摘を受けた。

その頃から僕は変われただろうか。


***


父はちょっと変わった人であるが(お前がいうな)
人情味のある人で人の世話をやってしまう。
そのツテでお仕事が舞い込んでくるという感じだった。
昭和の男は肌感でそうやってビジネスをやっているのだろうな。

そんな父も仕事を落ち着かせるべく、
とうとう有限会社の看板を下ろすことになった。
屋号は残すが事実上の引退である。

いくらばかりかの年金で今後は暮らすことになる。


あれはそう、
僕が40歳になった年の正月。
いつものように家族で実家に帰っていた。

父「サトシ(僕)、話があるから座敷へきてくれないか」

(ん?めずらしい)

仏壇のある座敷に一人だけ呼ばれた。
こんな改まった感じで話があるとはどういうことだろう。

少し心配になる。

自身の病気か、それとも母のことか。

僕ももう40だ。
もしかすると父の人生の中でこれまで子に言えなかった話があるのかもしれない。

まさか母と熟年離婚するとかはいわないよな?

不安がよぎる

もしかして僕がドイ家の子じゃなかった的な?
無くはないか、まぁそれくらいなら別に、、、もうおっさんだし。
正直本籍ちゃんとみたことないし。
その程度ならそこまで気にはならないかな。。

知らない両親でてきたらどうしよう。
仲良くできるかしら。

僕らが知らない兄弟とかいるんでは、、、できれば妹がいいな。。。いやいやいや。

ドイ宗家のことじゃあるまいな?
たしかに叔父の宗家のほうはいとこが女の子しかいないから継ぐ人はいないのかもしれないけど、もう令和だしなぁ、、、別に財産があるわけでもないし。
もらえるのはトラクターくらいだろう


父「サトシ?」

(はっ、あれこれ考えすぎた)

僕「あらたまってどうしたの?」


父「実はな、父さんな」


(なんだよ)


父「モデルになったんだ」


(…)


(・・・・)


はぁ?


僕「なんて?え?」

父「福岡のタレント事務所に入れてもらったんだ、実はWeb広告などにすでにいろいろ出たりしている」


父の人生第二ステージ開幕である


ノンフィクションである。
見せてもらった動画や画像では父がTVCMに確かに出ている。
チャンスがあればオーディションに参加して数打ちゃ当たるという感じでやってるらしい。

福岡では博多華丸さんとの共演も果たしている。
PR TIMESのプレスリリースに父がドアップで出た時にはびっくりしたものである
通販サイトではサプリメント飲んでる父に大いに笑ったものである。

おかしいとおもって事務所のことも調べたが、
真っ当な事務所であった。
有名なタレントさんも所属していた。

どうやって入ったのかと聞いたら

「自薦だ」
と言っていた。

自分を売り込んだんだ。まじか。
そんな営業ガッツがある人だったのか。

あまりお金にはならないらしい。
けど本人は楽しいと。

そしてドイ家は若くみられるので、
おじい枠はレッドオーシャンでもあるし
なかなか難しいのだとちょっと業界人のようなことを言う。

楽しそうだ。


僕「いいんじゃない?また何か出たら教えてよ」


母がまたこっそり教えてくれた話によると、

父は、
本当は、演劇や歌など表現する仕事をやってみたかったのだそうだ。

僕らを育てるのでそれを選択することができなかったんだろう。

今は若くはないが、若い頃にやってみたかったことにまだ元気であるうちにチャレンジできる。そしてその難しさを楽しんでいる。
まだ間に合うということをまた教えてくれている。

僕なんかがこの歳で今更だなんて言ってられないのである。

父はいつまでも父であり、
背中を見せてくれている。

ありがとう。僕ももう少し頑張ってみよう。


僕も子供達に「こんな父親だったなぁ」と語られるように背中を見せていきたい。


まだ間に合うから。


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【あとがき】
最後までお読みいただきありがとうございます。

父の日、あなたは何をしますか?
いつもは親孝行でいろいろしたりするんですが、
今回は父の大好きな鰻を贈っておきました。
母も食べれるしね。

日付にこだわる必要はないので、遅れてもいいから

「ありがとう」って言ってみませんか。

お読みいただきありがとうございました。もし参考になったり面白かったと思っていただけましたらサポートよろしくお願いします。次の執筆のモチベになります。