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若者をテイクするまちづくりから、ギブするまちづくりに変えていこう。

「10代を消費されるような扱いを感じたことがあった」

これは高校生の頃からまちづくり活動に参加していた、ある大学生が語ってくれた話です。

これを聞いて、なんだか胸が苦しくなりました。

例えば、
「高校生でも呼んでおけば良いだろう」
「大学生にやらせておけばいいだろう」

と、地域の行事に労働力として駆り出したり、何の目的があるかもわからないボランティアに参加させられたり…。

そういったことは、どのまちでも行われていて、知らぬ間に高校生や大学生が消費されてしまっているのです。

解像度を高めて言えば、Aさん、Bさんというひとりひとりの固有名詞ではなく、高校生や大学生というブランドだけを見て、彼らをモノのように消費してしまっていることが問題ではないかと感じています。

消費者的な人格と受贈者的な人格の話

つい先日、クルミドコーヒーの影山さんと対談をさせていただく機会がありました。

影山さんのご著書『ゆっくり、いそげ』のサブタイトルに、人を手段化しない経済とあるように、一人ひとりの思いを大切にした経営を西国分寺のカフェから挑戦している方です。

クルミドコーヒー影山さん(三島の「ゆっくり、いそげ 講演会」にて)

影山さんとの対談の中では、「消費者的な人格」と「受贈者的な人格」についての話がありました。

自分の利益になるように、より安く、より良いものを、、、と考えるのは、消費者的な人格(テイク)。自分の利益にはならないかもしれないけど、目の前の人のために、、、それが受贈者的な人格(ギブ)です。

消費者的な人、受贈者的な人のふたつのタイプの人がこの世に存在しているわけではなく、もともと人間にはこのふたつの人格のどちらもがあって、場面場面で変化するのではないか?、

そして、それぞれの人格を刺激する振る舞いというのがあって、例えば、クルミドコーヒーでは消費者的な人格を刺激しないようにポイントカードをやらないと決めているんだと。

逆に受贈者的な人格を刺激するためには、金額以上のもの/サービスをもらっちゃったなという感覚になってもらうことが大事で、その感覚は「健全な負債感」とも言えるんじゃないか

そして、「健全な負債感」の感覚を持った人は、カフェを出てから、ゴミを拾ってみようかとか、家族に優しく接してみようかとか、こういう贈り合い(ギブ)が起こるんじゃないか?と。

そんなことが影山さんのご指摘です。

若者にしてもらうまちづくりから、若者のしたい!を応援するまちづくりへ。

この話を聞いてみて、高校生や大学生のまちづくり参加にも共通して言えることがあるなと感じました。

高校生や大学生になにかをしてもらおうと考えるまちづくりでは、彼らを手段化してしまっています。彼らになにかを贈るというよりは、彼らを消費する気持ちが前に出ているわけです。

それがこのnoteの冒頭で書いた大学生の語りにも繋がっています。

そうした若者が参加するまちづくりの場では、、、

「都会へ出ても、またまちに戻ってきてね」とか、
「このまちのことを少しでも好きになってね」とか、

と、大人たちは言ってしまうわけです。

しかし、消費的な扱いをされた高校生や大学生はこの言葉をどんな風に感じるのでしょうか?

大学生の頃の僕だったら、

「クソ野郎!こんなまち絶対出ていくからな」

と思っていたことでしょう(笑)

そこで僕からの提案は、若者にしてもらうまちづくりから、若者のしたい!を応援するまちづくりへ転換できないか?ということです。

若者を客体から主体にしていくこととも言い換えることができます。

若者に「健全な負債感」を持ってもらう

高校生や大学生たちが「やりたい」「表現したい」を応援することを通じて、大人からギブしていくのを第一に考えてみる。

そのまちに住み続けるかどうかとか、まちのことが好きになるかどうかは、一旦忘れて、まずは目の前の一人ひとりの若者の声に耳を傾けてみる。

きっと、そうしてたくさんのギブを受けた若者は、「健全な負債感」を抱いて、誰かになにかを贈ってみよう(ギブしてみよう)と思ってくれるはずなんです。

そうすれば、若者たちは自然とそのまちが好きになるし、その大人たちのことを覚えているはずで、結果として人口減少対策になるかもしれません。(定住人口にならなくても、きっと関係人口として関わり続けてくれるはず)

若者をテイクするまちづくりから、ギブするまちづくりに変えていこう。

それが僕からの提案です。


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