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異なる価値が並列していればいい。

まちや地域の活動に関わっていると、様々な価値観同士の対峙と出会うことになります。それは時に非論理的で、慣例的なものだったり、感情論が前面に出るものだったりするわけですが、それ故にまちはおもしろいとも思うのです。

高い給料よりも「生きがい」「働きがい」がキーワードとなりつつあるアフターコロナの世界では、「自分らしさ」を求め、地方移住を考える方も多くなるのではないでしょうか。

こうして移住者が増えると、いままで以上に価値のすれ違いが起こるのではないかと想像しています。そのまちでずっと根をおろして生活してきた地元民と、新しい幸せを求めて移住する移住民、土の人と風の人と言ったりもしますが、異なる背景をもつ両者は最初からうまくいくとは限りません。

人口減少時代なのだから、外から入ってきた人はあたたかく迎えたいものですが、自分たちの生活圏にヨソモノが入ってくることに、警戒心を持つ地域住民が多いことも確かです。

似たようなことが商店街で起こったりもします。発展途上とはいえ、私が活動する焼津駅前通り商店街は、地方のよくある商店街と同じようにシャッター通りとなっています。そこで新しいお店がオープンするとなれば、大事件なわけですが、まったく知らない人が突然、商店街のなかでお店をはじめると、地元の人は警戒したような口ぶりで、「なにか新しいお店ができるらしい」と言うのです。

ぼく自身でさえ、会ったこともない人が新しいお店をはじめると聞くと、ワクワク感がある反面、「変なひとが入ってくると嫌だ」とちょっとした警戒心を持ったりもします。

自分自身のなかに警戒心が湧くことに驚きを感じますが、この心を分析してみると、自分たちがつくってきたコミュニティやまちへの愛着から、ここを守りたい、壊してほしくないというメンタルモデルがあることに気付きます。

そして、日常と異質な誰かが自分たちの領域に入ってきた際に、合う・合わないは必ず起こるのです。自分たちと似たような価値観を持つ方であれば、時間の経過とともに同質化していくでしょう。しかし、価値が合わない場合には、「あいつは変なやつだ」「あいつには協力しない」と、仲間外れがはじまるわけです。

これは別に移住者と地元住民に限った話だけではありません。あらゆるコミュニティにおいて、異質なものを排除しようとするのはよくあることです。しかし、よくよく考えてみれば、もともと異なる背景をもつ人同士が共同の営みをするわけですから、価値が異なるのも当たり前のことです。

だったらぼくは、無理に対立することもなく、いがみ合うこともなく、「異なる価値同士が並列する状態」をお互いに認知し合えばよいのではないかと思うのです。

つまり、「ああ、あなたはそういう価値を持っているんだね」と認めて、それについて賛同も反対もしなければよいのではないでしょうか。相手の価値を認めて、変に干渉もしなければよいのです。

一度、まちづくりへの考え方で、とある商店主の方と口論になったことがありました。ぼくは経済だけでなく人間的な豊かさがまちの豊かさだと考え、その方は、経済をきちんとまわすことがもっとも重要な豊かさだと考えていたのです。1時間近く、ああでもない・こうでもないと言い合いをしましたが、その日は結論は出ませんでした。

それから数日経って、お互いにモヤモヤしていたのか、また話す機会を持ち、「あなたはそういう考えなんだね」とお互いを理解し合い、いまはお互い陰口を言うこともなく、普通に挨拶をしたりする仲です。

「違う」はそんなに悪いことではありません。「違う」は言い換えれば「多様性」と言ったりもします。もちろん最終的になにか意思決定をしなければいけない場合は、お互いの違うを超えて合意をしなければいけません。

でも、「違う」からといって、陰口を言ったり、仲間外れにしたりする必要はありません。変に「理解してもらえない」と悲しむことなく、「あ、違うんだな」でいいと思うのです。

そして、この価値の並列をお互いに認知していることが、合意をするときのポイントになったりもするわけです。抽象的な話になりましたが、そんな価値のお話でした。

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