オモコロの読書記事に合わせてトロッコを読んでみた

読書を大の苦手とするオモコロのメンバー、みくのしん氏が『はしれメロス』を読むという企画が大きな話題になったことがあった。

この記事が本当に面白かった。一文一文、音読しながら読み進めるという非効率に見えるスタイルなのだが、自分なんかより圧倒的に情景を思い浮かべているし、感情移入しているのだ。

本日その企画の続編が出ていた。今度は、芥川龍之介の「トロッコ」を読んだというのだ。

自分も『トロッコ』は未読だった。そこで、今回の企画を最大限に楽しむべく、まず自分が読んで感想を書き留めてから、オモコロの記事を読むことにした。

自分の感想

【自分の気持ちの動き】本作が強く印象づけられるかは、物語に深く没入し、良平の不安感に共感できるかにかかっているのだろう。自分はそうはならなかった。途中の休憩所でじれったさを感じている良平の感情というのはリアルだなあと思わされたが、どこまでも客観的に読んじゃったなというのが正直なところ。

【解釈】トロッコに載せてもらい、家から離れるほどに不安が増していき、不安が爆発しそうになりながら帰路につくというエピソードは何かの比喩になっていそうだ。それこそ、人生とか仕事とか。

仕事になぞらえてみよう。最初は楽しそうでカッコよく見えて憧れた。そんな業種に就いた。まずはワクワクして、楽しんで。でもちょっと、当初思ってたことと違うなという想いとか、気になり始めたことがあって。徐々に焦燥感がでてきて。

そんな26歳という年のころの人間が感じている生々しい不安感も、振り返ってみると、子どものころの素朴な恐怖感にちょっと重なるようなところがあって、という話なのかな。

さらに言えば芥川自身が自らの人生にそんなことを感じていたのだろうか。ここで面白いのは良平が雑誌の校正を仕事にしていることだ。芥川が良平に自分を重ねるのであれば、良平を作家にしたほうが話が早い気がする。だとすれば、芥川が関わっている、あるいは横目に見てきた雑誌編集者に、自らの人生に納得していない人達もいたのかもしれない。まあこれは、芥川の個人史を良く知らないと批評しようもないのだが。

自分の感想を見つめてみて

一応、解釈だけに終わりがちな自分の欠点を自覚していて、まずは自分の感情の動きを書くところからスタートしている。しかし悲しいことに、自分はあまり没入できなかった。それがなぜなのか、この感想を書いた時点では自己分析できていない。

感情について振り返ったあとは、上手く感想が言語化できなかった部分や、ちょっと自分のなかでピンと来たような部分を拾い上げ、膨らませている。

自分の場合、物語から教訓を引き出し、それを自分のなかに収納しておきたいという欲望が強いようだ。さらに、その物語が生まれることになった背景にも興味があるようで、「芥川自身にこんな要素があったのかな」なんて憶測をしている。とはいえ、著者の背景から考察するというアプローチにはガチ勢がいることもわかっており、半端な踏み込みになっている。

オモコロの記事を読む

さて、満を持してオモコロの記事を読んでみた。期待を裏切らない楽しさに加え、みくのしん氏と自分の読み方の違いが強烈に感じられる体験となった。いくつか気づいたことを挙げていこう。

情景描写への向き合い方

前回の記事同様、みくのしん氏は全ての文を音読していく。そして描写のひとつひとつとゆっくり向き合っていく。

彼はかなり視覚優位型のようだ。文章を手掛かりにして情景を脳内で誠実に映像化しようとする。手元のノートにトロッコの絵を描いてみたりするし、登場人物の衣服の描写で知らない単語が出てくれば確認をする。

記事の終盤には彼の読書感想文が掲載されるのだが、そこには「本を観た後はいつも爽快。」という文字列が紛れ込んでいる。

そう、彼にとって本は観るものなのだ。これってすごい感覚に思えるのだが、同じような感覚の持ち主ってどれぐらいいるのだろう。


作中で「2月の初旬」という説明が出てきたときの反応が素晴らしい

「2月の夕方かぁ。トロッコ日和とはいかないね」
「トロッコに日和とかあるの?」
「この時期はすぐ暗くなっちゃうでしょ。夜になったらトロッコ見えづらいから」

こんなふうに読んでいると、終盤の良平が感じているであろう寒さや暗さも感じることができ、感情移入が捗ることだろう。

一方、自分は季節すら意識せずに読んでいたことを自覚させられる。それで読後に「なんか感情移入できなかったなぁ」とボヤいているのだから呆れたものだ。

主人公への感情移入

彼が凄いのは、8歳の主人公を相手に本気で共感し、強烈に感情移入をしてみせるところである。自分は中々そうはなれない。

「良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。」

という一文に対して、良平のいじらしさとか、芽生え始めている責任感のようなものを見出し、泣きそうになってしまうのである。

自分も読んだときに、同じような文脈は汲み取れたと記憶している。でも、その機微に浸る前に自分の眼球は次の文に進んでしまうのだ。

…ほかにも文章表現への感度なんかもあるのだが、クドくなるのでやめておこう。

自分の読み方との比較

読んでみてアリアリとわかったのは、彼が圧倒的に正しい読み方をしているということである。文章を一つ一つ丁寧に理解し、情景を思い描く。人物の見た目、価値観、感情を丁寧にイメージする。

そのプロセスが丁寧に行われているからこそ、彼は主人公が経験する出来事をほとんど追体験できてしまうのだろう。トロッコに乗れた嬉しさも、家から離れすぎたことを自覚して突如こみあげてくる不安も。それらが良平にとってどれだけの出来事かも想像できるし、帰り道がどれぐらい暗く、寒かったのかも映像になっているのだ。

自分はというと、情景描写については大枠をスピーディーに把握しにいくような読み方をしている気がする。3行ぐらいをいっきにまとめてみて、出てきた単語をつなぎ合わせて「まあこんな情景ね」ぐらいで一瞬で処理している場合さえある。

要するに自分の読み方は速読じみており、それはもちろん読書速度に貢献してはいるのだが、物語を通じて心を深く動かすということには極めて不向きなのだろう。いやー、自分も彼のように思いっきり感情を揺さぶられながら小説読みてえ…

自分の読み方は完全にダメなのか

さて、自分の読書スタイルは小説を読む上では全然ダメであることがわかってしまった。では、実用書はどうだろう?

自分が読むのは知識・教養を得るための、あるいは仕事や生活に役立てるための実用書ばかりである。その理解においても速読的な読み方はダメなのだろうか?

速読的な読み方の欠点は、文章を通じて接した情報を深く咀嚼できないところにあるだろう。複雑で入り組んだ内容であるほど、本当に理解して、自分の知識・理解の体系に組み込むにはじっくりと考え、頭を整理する必要がある。

だが自分の場合、読んだ後に大事だと思ったものを書き留めたり、さらに調べたり記録をつけたりという時間をとることをルール化している。そこで自分の読み方の難点についてカバーできているのではないだろうか。それに、速読的であることは、単純に読書可能な冊数を増やしてもいる。

つまり、自分の読み方というのは、実用書メインのライフスタイルに合致したものではあるのだろう。そうだと思いたい。

老後にでも、小説と向き合う時間が増えたなら、今度はみくのしん氏を見習ってゆっくりじっくり読む読書をしてみたいものだ。それまでは、自分が小説に向いていないことを自覚して、映画等から物語を摂取していこうかな。