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紅の豚:ポルコはなぜ豚になり、人に戻ったのか

紅の豚は何を描いたのか

久々に『紅の豚』を鑑賞した。その前に観たのはたぶん高校生のときだ。しかし、当時は単なるエンターテイメントとして消化してしまった。

もちろん、本作がエンターテイメント性の高いものであることは間違いない。ポルコの言動はいちいちかっこよく、豚の容姿とのギャップがたまらない。飛行機乗りたちは憎めないヤツばっかりだし(※1)、空を飛ぶということの快感もこだわりを持って描写されている。これらは作品において極めて重要な要素だ。

しかし、『紅の豚』はエンターテイメント性が極めて高いがゆえに、ストーリーの奥行きに目が届きづらいところもあるのかもしれない。この作品において気になるのは、ポルコが豚になり、そして最後には人間に戻った理由が説明的には描かれていないことだ。

手がかりとしてのハウルの動く城

主人公の容姿が大きく変化するジブリ作品といえば、『ハウルの動く城』を挙げることができるだろう。荒れ地の魔女に魔法をかけられ、ソフィーは老婆になってしまう。しかし中盤以降、ソフィーが若返った姿で描かれる場面が増えてくる。

ソフィーが若返る理由については、ある程度わかりやすく描かれている。荒れ地の魔女に魔法をかけられる前のソフィーは、自分の魅力や可能性について諦めていたようなところがあり、内面的に老婆のようなところがあった。荒れ地の魔女に魔法をかけられて老婆になるが、それはソフィーの内面とリンクしたものだったのだろう。だから、ソフィーが強い気持ちを持ったとき、自信をもって行動したときには、その魔法に打ち勝っている描写として若い姿になるのだ。

ポルコが豚になった理由

そう考えると、ポルコが豚になったことも、人間に戻ったことも、彼の内面に関係していると考えることができそうだ。しかし、ポルコという人物はかなり魅力的に、カッコよく描かれているように見える。彼が内面にかかえていた問題点などあったのだろうか。

ポルコが豚になったきっかけは、戦争中に飛行機の墓場を見たことだ。静かな雲海のなか、上空を無数の飛行機が列をなして飛んでいる。空戦で死んでいった飛行機乗り達だろう。そして、自分の仲間たちもその列に加わろうと、斜め上へと進んでいく。その様子を、ポルコは、高度を保ったまま見守ることになる。

なんとも不思議な光景だが、ここから生還した直後にポルコが豚になったことを考えると、この光景を見たことが彼の内面に影響を与えたと考えられる。自分の考えでは、ポルコはここで「仲間たちと一緒に死ぬべきだったのに生き残ってしまった。自分は一人、取り残された。」という感情にとらわれてしまったのではないだろうか。だから、人間の集団から疎外される存在である、豚になってしまう(※2)。

そう解釈した上で振り返ってみると、ポルコの立ち居振る舞いは他者を遠ざけているようにも見える。ジーナやフェラーリンといった戦前からの知り合いはポルコの方に踏み込んできてくれるのだが、ポルコはハードボイルドなセリフを吐いて、一定以上の距離に入り込ませないようにしているようにも見える。そう、彼のハードボイルドな言動は、内面に踏み込まれないためのバリア、ATフィールドのようなものに見えてくるのだ

ジーナはポルコに恋心を寄せているが、「ポルコが夜の店にしか来てくれない」ことを気にしている。そして、彼女の待つ庭に降りてきてくれることを願っている。距離を置くようになってしまったポルコが、彼の方から懐に入ってきてくれる日を待ち望んでいるのだ。

ポルコが人間に戻った理由

さて、ポルコが豚になった理由が、「他者を自分の内面に踏み込ませないようになってしまった」ことだったと仮定するなら、ポルコが人間に戻るのはそれを克服したからだと考えるのがスジだろう。

鍵を握っていたのはフィオだろう。芯の強い、屈託のない性格で、相手の懐にズカズカと踏み込んでいく。彼女はポルコに「設計を任せて欲しい」「一緒に乗せて欲しい」と遠慮なく要望する。ポルコはハードボイルドな受け答えで遠回しに拒否しようとするが、彼女はポルコの目を見て「お願い」と訴え、正面から交渉をしてくる。そして、ポルコは根負けし、彼女の提案を受け入れる。ポルコは豚になって以来、ハードボイルドな言動で他者と距離を置くようにしてきたが、フィオには通用しなかったのだ。

ポルコが人間に戻る描写は最後だけではない。カーチス戦の前夜、銃弾を選り分けているときに、一瞬だけ人間の顔に戻っている様子をフィオが目撃する。そして、フィオに「何か話をして欲しい」と言われる。ポルコはどんな話をしても良かったはずだが、ここで彼の内面に深く関わる、飛行機の墓場の話を選択する。その時点までに、作中でポルコはフィオに自分の内面を見せる準備ができていたのだろう。

ただ、フィオと一緒に飛び立った時点では、半歩前進と言ったところだろう。ポルコはジーナの元に向かうが、庭に降り立ちはしない。庭の前で、ハートの軌道を描き、飛び去っていく。内面を見せるようになりつつも、まだスカしているのだ。

もう一人のキーマンはカーチスだ。彼も自分の内面をハッキリと表現するキャラクターである。彼は出会って間もないジーナに求愛し、フラれてから大した時間も経っていないのにフィオに求婚する。こういった極端な率直さは、ポルコとの対比になっているのではないだろうか。

ポルコはカーチスとの空中戦も「ずっとバックを取り続け、相手がヘタったところでエンジンに2,3発撃って決着」というスカした勝ち方を狙う。しかし、サビ弾が引っかかり、闘いは飛行機の部品を投げ合うグダグダの消耗戦となり、最後は殴り合いになる。

部品を投げあいながら、殴り合いながら、お互い激しく罵りあう。もはやハードボイルドにカッコつける余裕などどこにもない。このように心が裸になった状態で殴り合っている最中に、カーチスに「ジーナはお前を待っている」と言われ、ジーナには「あなたもうひとり女の子を不幸にする気なの」と言われる。

ここで、ポルコはジーナに愛を伝えると心に決めたのではないか。だから、試合の決着後、ポルコは人間に戻っている。孤独な豚を気取り、他者と距離をおくことをやめたからだ。あの日、自分だけが生き残ってしまったことを理由に卑屈になることをやめたからだ。

作品の最後は数年後のフィオによる独白となり、ポルコが人間に戻ったのか、ジーナと恋仲になったのかは明示されずに終わる。しかし、作品を読み解けば、どういう結末だったのかは一目瞭然だろう。


※映画など、物語へのレビューについては、下調べをせず一発勝負で書くことにしている。



※1 冷静に考えると、空賊達は誘拐をしているし、カーチスは最後の闘いでは観衆を危険に晒しながらポルコを振り切ったりもするのだが、彼らの卑劣さや幼稚さが許容されるように、うまく毒抜きされているように思う。

※2 『豚』という対象にはもう少し意味が込められていそうだが、それは監督インタビュー等を見ないと解釈が難しそうだ。