ノー・ワンダー
突然の激しい雨は、ドライブ中の孝一の視界を奪った。
バケツをひっくり返したという表現がやさしく思えるほどの降り。
バスタブの転覆。このままじゃあぶないな、と彼は思って、
アクセルペダルを踏む右足の力を抜いた。知らない峠道、夕方の大雨。
後部座席には孝一の愛犬、ボストン・テリアのボニーが
ハーネスでシートにつながれている。彼女は気の強い女子で、
どんな大きな犬にも負けない性格を有している。
このどしゃ降りの車内でもまったく動じていない。
まったく、誰に似たんだろう、と運転席で孝一はつぶやいた。
そして、自分の妻の彩香を思い出した。
もうすぐ夏休みも取れるし、ボニーも連れて、軽井沢にでも旅行に行こう。
彩香もよろこんでくれるだろうし、たまには家族サービスしなくちゃな……。
あと数キロで得意先の役員の別荘だ。
そこに自社のアウトドア用のガスコンロを届ければ今日はおしまい。
あとでどこかでボニーと休憩できる店でも探してみよう。
一瞬だけ視界が開けたような気がした。
左にガードレールが見え、その十メートル先が破損している。
あれ、まずいなと思った瞬間に、ハンドルが大きく振れた。
衝撃が走る。すぐに車体はバランスを崩し、左側に重心が移動して、
ふわっとクルマが浮き上がった気がした。
孝一が目を覚ました時には、暗い闇の中だった。
急激にからだのあちこちが痛み出す。特に右足を動かすと、
声をあげてしまいそうなくらいの激痛が走った。
「どうしたんだっけ、おれ……」
どうやら頭も強打したようで、ずきずきと痛んだ。
「崖からクルマごと落ちたのか……。そうだ、ボニー!」
孝一は痛みをかえりみず、振り返って後部座席に視線をやった。
暗くてよくわからないが、ボニーがそこにいるようには見えなかった。
「ボニー!」
彼は叫んだ。しかし返答はない。目が暗闇に慣れてくると、
ぼんやりと周囲の輪郭が見えてきた。息が荒くなる。からだも熱っぽい。
クルマの屋根はひしゃげ、ダッシュボードが妙なかたちに飛び出している。
作動したエアバッグが胸に当たっていて苦しい。
助手席はリクライニングが壊れて、
ぱかぱかと不安定な使用不能の椅子になっていた。
そしてさらに最悪だったのは、
孝一の右足が完全に折れているだろうということだった。
膝のあたりからまったく動かないし、どうやら出血もある。
そっとふくらはぎを触ると、べっとりと血が手のひらについた。
「待て、待て待て、ボニー、ボニーはどうしたんだ……!」
フロントガラスはひび割れただけで済んでいるが、左後部ドアがない。
どこかで外れてしまったようだ。
後部座席にボニーをつなげていたリードも見当たらない。
ちぎれてしまったのだろうか。
もしかしたら、ボニーはこの左後部ドアから
どこかに放り出されてしまったんじゃないか、と孝一は思った。
そしてものすごい恐怖にとらわれた。
ボニー、ボニー、なんていうことだろう。
それにしたってドアが外れるなんて、
どんなむちゃくちゃな転がりかたをしたっていうんだ。
とにかく、救助を呼ばなければいけない。
きっとここは崖の下で、うっそうとした森の中に違いない。
風でこすれあう木々の音が聞こえる。雨は止んでいるようだが、
いったい今は何時頃なんだろう?
孝一は左手でデニムパンツの左後ろポケットに手をのばした。
そこにスマートフォンが差し込まれているはずだったが、ない。
そのままフロアを手探りでまさぐってみたが、やはり見当たらない。
落ち着けよ、だいじょうぶだから、きっと。
孝一は自分の意識が少しずつ薄れてきているのを感じていた。
寒くはないが、このまま意識を失ったらまずい気がする。
はは、まさかおれは死ぬのか?
……心残りはいくつもある。まずボニーだ。
ボニーをなんとかして見つけたい。あの子はおれの、おれたちの娘なんだよ。どうしよう彩香……ボニーがいないんだ。
***
午前〇時になった。孝一からは連絡ひとつない。
彩香はさすがにやきもきしていたが、
どうもおかしいぞ、と考えをあらためた。
彼が今まで連絡をよこさないことがあっただろうか。
しかも、ボニーと一緒の時は、
高速道路のサービスエリアあたりでメッセージを送ってくるのが常だった。
いやな予感がした。
背中を伝わる冷や汗というものを初めて体験した気がして、悪寒が走った。
「……まさかね、事故なんて……」
もしも交通事故に遭遇したのなら、警察から連絡がくるだろう。
それに、ただ渋滞にはまっているだけかもしれない。
いらいら運転中だから、連絡をくれないだけなのかもしれない。
じゃあもっといらいらさせてやるか、と
彩香は机に置いてあったスマートフォンを手に取った。孝一にダイヤルする。
着信したと思ったら、ぶつっと切れてしまった。孝一が出たのだろうか?
なんなんだろう。どうして切るの? 彩香はもう一度ダイヤルする。
「……おかけになった電話番号は電波の届かないところにいるか……」
彩香はどうも腑に落ちなかった。
電波状態が悪い場所にいるということだろうか。
あるいはただ単純に、運転中で出られないというだけなのだろうか。
彼女はひとまずLINEのメッセージを送ることにした。
シンプルに『いまどこですか』と打ち、
送信しようとしたところ、電話が鳴った。孝一からだ。
なんだよ、心配しちゃったじゃないか。
呼吸を整えて、スマートフォンの着信ボタンを押す。
「もしもし、孝一くん?」
「……」
何も話さない。雑音がひどい。
「孝一くん? どうしたの?」
そこで電話は切れた。
続けざまに新しい着信が届く。
バイブレーション音が部屋じゅうに不吉に響いた。孝一からではない。
彼の同僚の山口さんの番号だ。
「あ、夜分に申し訳ありません。山口です。
孝一って、まだ帰ってないですか?」
山口という男は孝一の仲のよい同僚で、彩香も何度か会ったことがある。
体育会系の好青年という印象で、
文学青年ふうの孝一とはまったく違うタイプ。
「そうなんです、まだ。……何かあったんでしょうか」
「いえね、今日はあいつ、
お得意先の役員の別荘に納品しに行ったはずなんですけどね。
お得意先から連絡が会社にあって、
まだ来ないんだけど、って言うもんだからおかしいなと思って」
「……え?」
「で、何度も電話もメールも本人にしてみたんですけど、出ないし、
返信もない。LINEなんて既読にもならないんですよ。
彩香さん、何か心当たりとか、あります?」
「……まったくないです。もしかしたら、
どこかで事故にでも遭ってるんでしょうか」
電話口の沈黙が重い。
「……すぐに探しに行きます。念のため彩香さんは警察に知らせてください。彼が通っているであろうルートを、
もちろん確かというわけじゃないのですが……これから送るので」
「山口さん、あたしも連れていってください。
何だかいやな予感がするんです」
彩香は孝一のスマホからかかってきたさっきの無言電話のことを、
山口に話した。
「……どういうことなんでしょうね。
もしかして何かしらの話せない状況にあるとか」
山口が運転席でそう言った。
午前二時を過ぎた国道は、他のクルマもあまり通っていなかった。
たまに対向車がハイビームのまますれ違う。
「声が出ないとか、出せないとか、そういうことですか?」
「怪我をしていたり、意識が遠くなっていることも考えられますよね」
「やっぱり事故を起こしている……のかもしれませんね」
「急ぎましょう」
もうすぐ峠道に入る。高速道路や一般道で事故を起こした、
ということはもう考えられないから、
もしかしたらどこか誰も通らないような辺鄙な場所で
何かがあったのかもしれない。
だとしたらこの峠道が怪しい、と山口は言った。
「彩香さん、警察には連絡してくれたんですよね」
「はい。今ごろはパトロールしてくれていると思います」
彩香は孝一の無事を祈った。そして、ボニーのことも。
あの子はとても利口で、人の気持ちの細部までわかるような犬だ。
運動神経も抜群。もしも孝一が事故を起こしていたとしても、
ボニーが無事ならばきっと、すべてがうまくいく気がする。
あの子はあたしたちの娘で、種を超えた大切な存在なのだ。
ボニーは、孝一と結婚して一緒に住みはじめた時に、
ボストン・テリア専門犬舎から迎えた子だ。
リーダー犬気質で、はっきりした性格だった。
この子は気が強いですが、合う人にはとても合う、とブリーダーは言った。
あたしたちは迷うことなくその子に決めた。
名前をボニーと名付けて、
じゃあクライドはあたしたちのどっちなんだろうね? と
孝一とふたりで笑った。
ボニーは愛らしく、気高く、
けれども茶目っ気たっぷりのボストン・テリアだった。
あたしたちにしか懐かず、
たまに何を考えているのかわからないミステリアスさを見せた。
ヘッドライトがこの狭い峠道の、
あちこちひび割れたアスファルトを照らしていく。路面は濡れていて、
ここでどしゃ降りにあって、スリップしたのかもしれないと彩香は思った。
ガードレールの下はどうなってるのだろう。
彼女は最悪のパターンを頭の中でたどりながら、
運転している山口に向かって、
ゆっくりゆっくり走らせてください、と告げた。
「この峠道を抜けて下ったところに得意先の役員の別荘があるんです。
そこまで目をこらして、ゆっくり進みます」
山口がハンドルに力をこめて、そう言った。
ガードレールはほとんどの路側に設置されていたが、
破損しているところも多かった。照明灯はかなり少ない。
不吉な予感しかしない道のりだ。
そして彩香は見逃さなかった。ガードレールの先端部分がひしゃげていて、
そこに真新しそうな青い塗装が付着しているのを。青いクルマの……。
「山口さん、停めて!」
彩香は停止したクルマから飛び出した。
後ろ側にまわり、青い塗装がこびりついたガードレールの、
ちょうど切れている部分からその下を覗いた。
暗くてよくわからないが、崖のようになっているようだ。
木々はうっそうと生い茂っていて、
風の音が不気味に夜中の峠道を通り抜けていた。
「彩香さん、ぼく、フラッシュライト持ってますよ」
山口がそう言って、強力そうな懐中電灯を点けた。
暗闇をまんべんなく照らしてみる。
明らかに大きな物体が滑り落ちたような痕跡が見てとれた。
枝は折れて、葉は散乱し、土の部分がえぐれているところもある。
轍というよりも何かが転がり落ちたような跡。
「……山口さん、あたし降りてみる」
「ええっ……危険ですよ。警察に電話しますから、それまで待ちましょう」
「電波、微妙な感じですよ。何度かチャレンジしてもらって、
それでもつながらないようなら、麓まで戻って呼んできてもらえますか?」
「……じゃあ、ぼくが下に降りますよ。……男ですから」
「だめなんです。あたし、クルマの免許持ってないから」
彩香はそう言うと、少しはにかんだ表情を見せた。
「きっと警察も見回っていてくれているだろうけど、
もう、待てそうもないんです」
彼女は後部座席に置いてあったリュックサックをひょいと持ち出した。
頑丈そうなハイカットのスニーカーの靴ひもをきつく締め、
とんとん、とその場で跳んでみる。
リュックからアウトドア用のヘッドランプをとり出して、装着する。
ファーストエイド・キットの中身を確認して、
それからごそごそと小型のトランシーバーを引っ張り出す。
そしてその片方を山口に渡した。
彼はぽかん、と口をあけたままそれを受け取った。
彩香はぶ厚い革の手袋をして、破れたガードレールを力強くつかんだ。
***
どれくらい眠っていたのだろう。孝一はふと目を覚ました。
自分が死んでいないことに少しだけ安堵する。
けれどもからだの痛みはあいかわらずだ。
折れているであろう右足の感覚は、もうほとんどなくなっている。
この深い暗闇の中、打つ手がまったくなかった。
……動物の鼻息……? フッフッという、規則正しい音が聞こえる。
孝一は上半身を起こして、ボニー! と呼んだ。
「ボニー、ボニー! そこにいるの?」
べろん、と孝一の顔を舐めたのは、ボニーの大きな舌だった。
「どこに行ってたんだよ、ああ、もういいや……生きていれば……
ボニー、怪我はないのかい?」
ボニーの顔は暗くてよくわからない。
左手でからだのあちこちをまさぐってみたが、痛がるようなそぶりはない。
「ボニー、ごめんよ。こんな目にあわせちゃって。
かならず帰るからね。きっと彩香が見つけてくれるよ」
***
奇跡は、集中力に宿る。彩香は唐突にそう思った。
あたしがこの集中力を失わないでいられる限り、奇跡は起こり続ける。
恐怖はなかった。孝一もボニーも、かならず生きていると信じることで、
暗闇は少しだけその色を薄くした。
三十メートルくらい下っただろうか。斜面がなだらかになり、
足場もしっかり確保できるようになった。
ほとんどフラットな踊り場のような場所。
クルマが落ちて転がって止まるのならこういうところだろう。
「孝一くーん!」
彩香は叫んだ。返事はなく、その声は夜の闇に吸い込まれていく。
「ボニー!」
その三秒後、犬が吠えたような声が聞こえた。
そんなに遠くない。ボニーだろうか、
ボニーが返事をしてくれているのだろうか。
「ボニー! ボニー!」
彩香は続けざまに大声で、種を超えた大切な存在の名前を呼んだ。
ボニー、どうか教えて。どこにいるの、迎えにきたよ、みんなで帰ろう。
「ボニー! どこにいるの!」
また聞こえた。間違いなく犬の声だった。ボニーがあたしを呼んでいるのだ。
彩香は自分が泣いているのを感じていた。
からだは熱く、胸が張り裂けそうだった。
枝葉が顔に当たり、ひっかき傷をつくる。
かまうことなく進んで、
その先に大きな物体がひしゃげているのを見つけた。
***
「そうか……そうだったんだね」
孝一は病院のベッドでうなだれた。
「ボニーは……後部座席にいたの。
もう死後硬直もはじまっていて、どうにもならなかった」
彩香はぐずぐずとした鼻声で、そう告げた。
それはとても悲しい鼻声だった。
彼女の瞳からはとめどなく涙があふれていた。顔はすり傷だらけだ。
「……内臓破裂で即死だったはずなんだけど、
間違いなくあたしはあの子の声を聞いた。
だから孝一くんを見つけられたんだから」
「……彩香、そういえばクルマの左後部ドアって、なくなってたよね……?」
彩香はなぜそんなことを聞くのかというような顔をして、
「ドアはひしゃげていたけど、どこも外れてはいなかったよ」
と言った。
孝一は何がなんだかわからなかった。ぼくは夢を見たんだろうか。
気絶して、最初に目を覚ましたとき、ボニーは車内にいなかった。
左後部ドアがなくなっていて、
そこから放り出されてされてしまったのか、と思ったのだ。
そして次に目を開けたときには、ボニーがそばにいて、
ぼくの顔をべろんと舐めたのだった。
孝一はそのことを彩香に説明した。
彩香は驚くそぶりも見せず、泣きはらした顔で、やさしそうに笑った。
「それはきっと、あなたを元気づけようとしたんだね。
ボニーは、生きていても死んでいても、
それだけはしたかったんじゃないかな」
孝一は病室で号泣した。ごめんよ、ボニー。
ぼくのせいで。ボニー、ぼくらのボニー。ごめんよ。
***
「彩香さん、ほんとうに……ボニーは残念でした」
山口がそう言った。オフィス街の午後。カフェはしんと静かだ。
「ところで例の無言電話、孝一は何か言っていましたか?」
「孝一くんは電話はかけていないそうです。
ポケットにスマホを入れていたけれど、
どこかにすっ飛んでいってしまって、絶望したと言っていました。
……だから、あたしはこう考えることにしました。
あの電話はボニーがかけてきてくれたんだと。じゃないと、
孝一くんのスマホからかかってきた事実が説明つかないですもんね」
彩香がそう言った。山口は自分のあごを撫でて、
考えをめぐらせているようだった。
「結局、スマホは見つからなかったんですか?」
「いえ、それが……車外で見つかったんです。
崖の途中に転がっていました。
これはどういうことなんだろう、と考えたんですが、
どうしてもわかりません。発信履歴は確かにありました。
誰があたしに、あの日あの時間にかけてきたのかは、わからないままです」
彩香はそう言って、山口の顔を見た。
「だからきっと、
電話をかけてきたのはボニーなんだと思えばつじつまが合うんです」
「彩香さん、動物は……もちろん人間もですが、全身の細胞が完全に死滅するまで、一昼夜ほどかかると言われています」
山口がまじめな顔をして、彩香に言った。
「どう言えばいいのか……あの現場には人間と犬の真剣なやりとりがあった。そこでは何が起きてもおかしくなかった。
あの日、あの時間、あの場所で不思議なことなど、なにひとつなかった」
山口がそう言うと、彩香はうなずいた。
「ボニーは、これからも何も言ってはくれないでしょう。
でも、ぼくらは想像することができる。
そしてそれは、我々がこの先も生きていくということに対しての、
よい報せみたいなものです。動物の気持ちを推し量ることで、
ボニーのこころを察することで、ぼくらは救われる」
あたしたちがこれから生きていくうえでのよい報せ。
きっとボニーの性格だから、
アタシがなんとかするからね、と張り切ったんだろうな。
そんなふうに思ったら、なぜか笑ってしまった。
そして、またとめどなく涙があふれてきた。
なんて愛しい、あたしたちのボニー。
***
ある冬の日の朝、
彩香はベッドであの美しいボストン・テリアのからだつきを思い出していた。つややかな被毛、白と黒のツートーン。
愛らしい笑顔。叱られたときの上目遣い。威勢のいい吠え声。
孝一が声をかけた。明日、ボニーのお墓参りに行こう。
彩香はにっこり笑って、そうだね、会いに行こう、と言った。
すべてを理解することなんてできない。
それが事実なのかどうかは確かめようがないことがある。
だが、そもそもそんなことは別に問題ではないのだ。
自分にとって、あたしたちにとって、ボニーは確かに存在していた。
彼女が、あたしたちを助けてくれた。
そんなふうに言い切ったところで、誰に迷惑をかけるわけでもない。
不思議なことなんて、なにひとつない。
彩香は目を閉じて、ありがとうボニー、とつぶやいた。
「どうしてこんなにも犬たちは
犬からもらったたいせつな10の思い出」
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