突然の激しい雨は、ドライブ中の孝一の視界を奪った。 バケツをひっくり返したという表現がやさしく思えるほどの降り。 バスタブの転覆。このままじゃあぶないな、と彼は思って、 アクセルペダルを踏む右足の力を抜いた。知らない峠道、夕方の大雨。 後部座席には孝一の愛犬、ボストン・テリアのボニーが ハーネスでシートにつながれている。彼女は気の強い女子で、 どんな大きな犬にも負けない性格を有している。 このどしゃ降りの車内でもまったく動じていない。 まったく、誰に似たんだろう、と運転
光太郎には、秘密があった。 彼は中学一年生で、いま、ある場所に向かって土手沿いのサイクリングロードを走っている。自転車ではなく自分の両足で。冬の初めの夕暮れ時、彼の上気した顔は、どことなくうれしそうに見える。 夕方の土手はどんどん冷えてきている。彼の眼前には路上生活者が建てたと思わしき青いテントがある。中で何かがごそごそと動く気配がした。 出入り口らしい真ん中の隙間からひゅっと顔を出したのは、焦げ茶色の子犬だった。 光太郎はしゃがみ込み、両手を差し出して、その子犬の突進を受
「どうせ、いつかいなくなるんだ。わかりあえないんだ」 里佳がそう言ったのは、 ミニチュア・ダックスフントの新之介を 正式に家族に迎えた日のことだった。 父親としては複雑な気分だった。 里佳は犬が大好きだったはずだが、 これは、親の離婚への異議申し立てなのだろうか、と。 確かに、母親がいなくなる事態は 彼女にとって最悪の展開と言ってもいいだろう。 仕方がなかったんだ、という言いかたをするのだけは避けたいが、 正直ほんとうにそうとしか言いようがない。 実際のところ、妻は、
歩道の真ん中で座り込んで泣きじゃくる3歳くらいの男の子。 かたわらにはお母さんと思わしき若い女性。 ぼくは時雨を連れていたから、 泣いているその子の視界にあんまり入らないようにしようと、 (怖がると悪いもんね) リードを短く持ち、できるだけ道の端っこを通ろうとした。 通り過ぎるとき、その若いお母さんが泣きやまないその子に声をかけた。 「ほら、わんわんだよ。食べられちゃうよ!」 …あれれ? なんだろうこの違和感は。 ぼくは何も言わずに、彼女らの前を通り過ぎてから、
風が涼しくなってきたある夜のこと。 ぼくは時雨(愛犬の名前)の散歩途中で、 ショッピングセンターの外のテラスに座っていた。 月はくっきりとしていて、秋になるんだなあ、と季節を感じる散歩だった。 「すみません…ちょっといいですか?」 声をかけてきたのは年配の女性と、 高校生くらいのその息子さんらしきふたり。 足もとの時雨をちら、と見て、 「触ってもいいですか」と言って、 ぼくがもちろん、とうなずくと、手を伸ばし、下あごに触れた。 犬が好きそうな人たちだ。 「じつはうちに
「砂浜にて」全文公開(最後まで無料で読めます) その老人は、砂浜に座って海を眺めていた。 彼は荷物も持っていなかった。 ただ、海をまっすぐに見つめていた。 小春日和といってもよい秋の日だったが、 ビーチは人影がまばらで、何人かのサーファーが沖にちらほら見えるだけだ。 ぼくは愛犬の散歩に来ている。犬の名前はシリウス。 なぜかシリウスはその老人のことが妙に気になるみたいで、 どんどん近づいていって、彼の前でぴたっと止まってしまった。 「……こんにちは」 老人が言った。す