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バズる深夜放送・林美雄

1970年代前半の肉体

 著名なノンフィクション・ライターの柳澤健が、2013~2014年にかけて月刊誌「小説すばる」誌上で連載し、2016年に単行本として刊行した『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』は、めっぽう面白く、かつ、めっぽう熱い書物である。この面白さと熱さは、この作品の主要な舞台である1970年代前半の時代に特有なものであろう。おそらくそうは言われることはまずなかろうが、私は、ちばあきおの名作マンガ『キャプテン』と『プレイボール』を読むときに感じる心の昂ぶりのことを、読みながら思い出していた。冴えないアナウンサーとしてくすぶっていた林美雄を、一躍サブカルチャー・シーンのヒーローに押し上げた第1期パックインミュージックと、ちばあきおの野球マンガの連載は、ほぼ同時期の現象であった。林美雄の第1期パックは1970年6月から1974年8月にかけて放送されたのだが、ちばあきおの『キャプテン』は1972年に、そして『プレイボール』は1973年にそれぞれ連載が開始されている。


『1974年のクリスマス』(柳澤健著)

 1967年にTBSに入局した林は、同期の久米宏や一期後輩の小島一慶に一歩も二歩も遅れをとった三流のアナウンサーであった。一方、『キャプテン』の主人公谷口アキオもまた、中学野球の名門に所属しながら2軍の補欠であった。林は、病気のため現場を離れた久米宏の穴埋めで、午前3時から5時というスポンサーのつかない枠の深夜放送を担当するも、異様な情熱で埋もれた日本映画や新しい邦楽を狂ったように紹介し続け、一種の文化運動を展開し、周囲に波を起こしていった。谷口アキオも、尋常でない情熱を燃やし続け、転校先の凡庸な野球チームに熱を感染させ、名門チームと互角の勝負を繰り広げる。そのような彼らの姿は、日活の小林旭や宍戸錠の格下だった原田芳雄や藤竜也が前面に躍り出た70年代の邦画およびアメリカン・ニューシネマの愛すべき負け犬たちや、東映の格調高い侠客たちが零落した『仁義なき戦い』のアンチ・ヒーローたちの姿に呼応していた。正統的なヒーローの輝きと才能を欠落させた、だが二流なりの矜持と情熱だけは持続させたしぶとい肉体の鬱屈した輝きが、70年代前半にはかろうじて生存していたのである。

 そのような鬱屈した情熱を宿した肉体の持ち主の一人に林パックの熱心なリスナーであった沼部信一がいた。法曹界では名の通った裁判官を父に持つ沼部は、幼少期から「飛び抜けた秀才」で、東京大学文学部にも難なく合格し、入学後も「西洋文化の精髄である古典美術とクラシック音楽の両方に精通する沼部は、学部内でも際立った存在だった」(『1974年のサマークリスマス』)。しかし、著名な学者である高階秀爾からも将来を嘱望されながらも、卒業間際になって挫折を経験する。周囲からの期待と羨望の眼差しを意識するあまり、卒業論文が書けなくなってしまったのである。そのような自分の内部に欠落状態を抱え込んでいた時期に、沼部は林美雄のラジオ番組と出会ったのである。

 「それはじつに奇妙で魅力あふれる番組だった」。日活ニューアクションやロマンポルノ、日本アート・シアター・ギルドのようなマイナーな作品群が紹介されると同時に、無名の荒井由実のまったく売れなかったデビュー作『ひこうき雲』や、映画『八月の濡れた砂』の石川セリが歌う主題歌がレコードがないため映画製作会社から音源を借り受けて執拗にオンエアされた。ほかにも能登道子の「むらさきの山」や桃井かおりの「六本木心中」や頭脳警察の「ふざけるんじゃねえよ」など、ふつうはまずかからないような楽曲が流され続けたのである。また、名物コーナーとなったモンティ・パイソンのように高度なニュースパロディ「苦労多かるローカルニュース」のような笑いのパートがある一方で、小田実や小中陽太郎や野坂昭如のような硬派な文化人が登場し、公害反対運動、ベトナム戦争批判、表現の自由に関わる裁判に関する自説が語られ、報告されたのである。そのような既存の文化モードとは明らかに違う番組内容は、自分の内側に真空を抱え込んだ沼部信一をはじめとする若者たちの心をとらえて離さなかった。彼らは、マニアックな文化愛好活動に興じる一方で、小田実のベ平連運動に刺激を受けて、ベ平連のデモにも参加し、その中には、後にドキュメントの映像作家となる荒川俊児もいた。

 ベ平連デモ参加を機に、「ミドリブタニュース」なる手書き簡易印刷のミニコミ誌が発行されるようになり、この印刷文書がきっかけとなって、沼部は他のリスナーたちと合流し、林パックをめぐる文化活動にのめりこんでゆく。1974年8月9日の林パックの放送直後、8月30日の放送をもって林の番組が終了することに納得のゆかない沼部は、それに反対表明をする「ミドリブタニュース」の発行人中世正之と会うことを決意する。なんと彼はその日に、封筒に書かれた差出人住所だけを頼りに、自宅のある埼玉県大宮市から中世の住居のある東京都青梅市まで3時間半以上かけて出向くのである。

 自宅から最寄りのバス停まで徒歩十分。路線バスに乗れば二十分ほどで国鉄・大宮駅に着く。大宮からは京浜東北線で赤羽へ。赤羽からは赤羽線で池袋へ。池袋からは山手線で新宿へ。新宿からは中央線で立川へ。立川からは青梅線で東青梅へ。
 当てずっぽうに東青梅駅で下車したが、駅前の地図で確認すると、どうやらひとつ手前の河辺駅との中間地点、むしろ河辺寄りの線路沿いの一画らしい。番地を確かめつつ十五分ほど迷い歩き、「中世」の表札を確かめると祈るような気持ちで玄関のブザーを押した。
 人の気配がした。
 しばらくすると、眠そうな顔の若者がドアを開けてくれた。
 「どちら様ですか?」
 「『ミドリブタニュース』を送っていただいた沼部といいます。僕も林美雄さんの番組をなんとか存続させたいと思っています。お手伝いできることはありませんか?」
 駒澤大学に通う中世正之は物静かだが気さくな男で、朝の九時半に突然押しかけてきた訪問者を大いに歓迎してくれた。
 それから六時間近く、ふたりは林パックや自分が観た日本映画について夢中で語り合った。昼食をとった記憶はない。 

『1974年のサマークリスマス』

 こうして本書のタイトルにもなった「1974年のサマークリスマス」というイベントへ向けて、熱狂的なリスナーたちによる「パ聴連」=「パック 林美雄をやめさせるな! 聴取者連合」(ベ平連のパロディである)の活動が開始されるのだが、沼部信一を狂言回しにした構成は非常に効果的である。運動に参加した当事者たちの息遣いを傍らで聞いているような臨場感があり、彼らの生々しい欲望や渇望をダイレクトに体感できる。このような叙述スタイルは、柳澤健の好みのようで、彼のまた別の著作である『1985年のクラッシュ・ギャルズ』の導入においても、家庭にも学校にも居場所がない女子中学生の「翌朝目覚めると、もう私はクラッシュ・ギャルズに恋していたんです」という心がクローズアップされて、物語が幕を開ける構成となっている。

 「1970年代前半の肉体」の思いがけない現前ぶりに、狼狽え混じりの懐かしさを覚える。宗教的感情にも似たこの心の昂ぶりは1980年代にはエリートを自認する文化人たちによって蔑まされていたものではなかったか。松浦寿輝は1980年代に、「1970年代前半の肉体」が抑圧されている状況を前にして次のように憤っていた。

 しかし、こんなまわりくどい言い方をするには及ばない。こうしたものたちをひとことで定義するごく簡明な言葉があるからだ。それは「抒情」とか「才能」とか「革命」とかと同様に、今日では、疾走したり逃走したりの速度を誇っているカルイ連中からとことん馬鹿にされている反時代的な言葉なのだが、要するに、生ぬるい偽りの楽しさをおのずから崩壊させてしまう事件の体験を指して、人はふつう情熱と呼ぶのである。サルトルのジャン・ジュネ論がそれをめぐって旋回し、またゴダールがその悲劇的作品のタイトルに貸し与えた「パッション」の一語こそ、「軽さ」の時代の真の敵と言うべきである。

「情熱について」

 結局は、1970年代から1980年代への移行は、情熱から楽しさへの移行と呼ぶことができそうだ。おそらく1974年は情熱の最後の時だったのであろう。情熱を呼び込む欠落を生きる肉体が覚える激しい飢渇は、どの時代にもあるはずだが、なぜか1980年代はそれを認めようとしなかった。だが、時代の「待った」をはねのけるように、その飢渇の情は状況の隙間から噴出する。少女たちの飢渇を受け止めたクラッシュ・ギャルズ然り。ガチなリアル・プロレスへの飢渇を受け止めた1984年発足のUWFも然り。尾崎豊現象も然り。そしてその母体が1984年に発足したオウム真理教の信者たちもまた……
 では次に林美雄とそのリスナーたちが生きた情熱の姿を具体的に追ってみよう。

プレ・テレビのメンタリティ、映画と活字の感性

 長距離トラックや深夜タクシーのドライバー相手の放送枠として、いすず自動車がスポンサーがついたがゆえに、林のあまりにマニアックな番組は終了を余儀なくされたが(ここには労働者カルチャーと学生カルチャーの対立が潜在しており、後に斎藤環によって定式化されるヤンキーとオタクの対立の萌芽を見出せそうだ)、じつはパ聴連の抗議運動や文化シーンの変化もあって1975年に林パックは、午前1時から3時の第1部へと格上げされ再開する。この時期から沼部信一は、林パックに違和感を抱くようになるが、本稿においても第1期パックを真のパックと見做して、そこに焦点を合わせる。そうした場合、林パックの周辺の状況はテレビ的というよりは活字的なメンタリティの気配が濃厚に漂っていることが感じられる。林美雄のバックボーンには2人の重要人物がいて、その2人とも活字の匂いをぷんぷん漂わせているのである。一人は林の上司で林の2度目の結婚式の仲人も務めた桝井論平である。もう一人は、籍は入れなかったが、林の最初の結婚相手で、子供の頃から文学に傾倒し、ミドリブタの命名者であり、番組内で読まれるいくつかの詩を作り、芸術映画、無声映画、寺山修司や唐十郎の演劇の存在を林に教えたMとイニシャルだけで呼ばれる女性である。

 桝井はテレビマンではあるが、いわゆる業界とかエンターテインメントとかテレビの属性をまるで感じさせない人である。桝井には『ぼくは深夜を解放する』という著書があって、その中には「しかし、実際は、もう一歩手前のところで、ぼく自身の存在がそこにあるという立脚点のあたりで、言葉を発するという行為としてのリアリティが、激しく問われているのである。言葉は、果してどこまで、言葉を超えた意味としてのひろがりを、志向の純粋さを喪わずに、持ち得るものであるかという根源的な問いかけは……」という言葉が読まれるが、およそテレビマンの言葉とは思えない。文芸雑誌かなにかの言葉に見えてしまうのだが、TBSというテレビ局は硬派路線が強い局らしく、田英夫のベトナム戦争取材とそれが政権に見咎められて退社に追い込まれるとか、成田空港建設反対運動の取材で目を付けられ放送中止を強いられるという事件に巻き込まれている。

 そのような環境に林は身を置いており、桝井や他の同僚とともに深夜放送の勉強会を開き、そのような活動の一環として「秘密結社TBSシネマクラブ」というものがあった。映画情報を集めた「結社ノート」が作られ、そこに上映スケジュールと内容紹介と、試写を観た感想が書いているのだが、それを見たアルバイトの連中がこれは商売になると思って、70年代から80年にかけて一世を風靡した情報雑誌『ぴあ』を作ったのだという。Mという女性については、桝井論平による次のような証言がある。

お互いに切磋琢磨しつつ自分たちの主張を実現するために勉強して、自分のレーダーを広げていった。林も自分の世界を作ろうとしたけど、なかなかうまくいかなかった。はっきり言えば、パックを始めた頃の林は、感受性豊かで、いいものを見抜く鑑識眼を持つMちゃんの力を借りて映画紹介をしつつ、僕の後追いをしていたと思う。もしMちゃんがいなかったら、林美雄はただの常識人にすぎない。一介のサラリーマンアナウンサーで終わっていたはずだよ。

『1974年のサマークリスマス』

 明らかに林美雄と彼を取り巻く人間たちは、ネイティブ・テレビピープルではない。彼らの感性は、プレ・テレビつまりはテレビ以前の文化によって形成されている。そしてその中心にはほぼ映画がある。たとえば、映画に関しては次のようなエピソードがある。

 1973年暮れに林のリスナーの女性から、番組で紹介される池袋文芸坐のオールナイトが楽しそうで自分も行ってみたいのだが、女性には敷居が高く躊躇してしまうので、林パックで「深夜映画を観る会」を作ってもらいたいという手紙が届く。林は早速リスナーに呼びかける。「今度の土曜日の夜には、みんなで一緒に池袋文芸坐のオールナイトを観に行こう。池袋東口で夜の八時に集合。もちろん僕も行きます――。」

 手紙を書いたのは野沢直子という保母のアルバイトをしていた女性。「五人くらいは来るかな」と前売り券五枚を購入して、目印として告知してあった「赤い毛糸の帽子」をかぶって、当日、「池袋でバスを降りたら、駅前のビルの下に人がうじゃうじゃと固まっていて、その固まりが赤い帽子の私に向かって押し寄せてきた(笑)。あわわわと狼狽しているうちに取り囲まれました。たぶん三十人以上はいたはず。女性も何人か。合言葉なんて全然必要じゃなかった(笑)。林さんが現れたのは、確か前売り券争奪ジャンケン大会をやっている最中でした」

 このようにして始まった「「深夜映画を観る会」は月一回行われることが決まり、そこには林が番組で推しまくった女優の中川梨絵もお菓子の差し入れを持って参加し、その影響は関西までに及んだと映画監督の大森一樹は証言している。また、がらがらだった池袋文芸坐が多くの若者で溢れかえったことに「驚いたスタッフが事情を調べると、ほぼ全員が林パックを聴いていることが判明して、午前三時から始まる深夜放送の影響力に驚愕した。文芸坐は早速、林美雄に企画賛助メンバー、つまりブレーンになってもらった」。そしてまた、林美雄と親しかった元「週刊朝日」記者の邨野継雄は、「『八月の濡れた砂』を林さんがあれだけ騒いでくれなかったら、藤田敏八監督は桃井かおりと原田芳雄の『赤い鳥逃げた?』を東宝で撮ることも、秋吉久美子の『赤ちょうちん』『妹』を日活で撮ることもできなかったでしょう」と語っている。

 1974年の夏に、サマークリスマスというイベント(荒井由実や石川セリも参加)とともにいったんは終了した林パックは、翌1975年1月に映画関係の大イベント「歌う銀幕スター夢の狂宴」を開催する。渡哲也のイメージ通りの折り目正しさが印象的に報告されているこの内容については是非とも本書で確認いただきたいが、最後に1975年を境にした状況の変化について触れたい。

パッション(情熱=受苦)の終焉

 1975年6月11日林美雄のパックインミュージックが時間帯を変えて唐突に再開される。荒井由実がこの時期メジャー化しつつあり、「林美雄が発掘した人たちが応援してくれれば、なんとかやれるんじゃないか、という空気が編成部の中に」あったらしい。これはこれで目出度いことであっただろうが、第1期林パックに熱狂し、パ聴連およびリスナーの一人の荻窪の下宿アパートを根城に展開された「荻窪大学」での活動の担い手たちは、違和感を抱き始めていた。その中の一人沼部信一は東京大学を退学し、アルバイトをしながら荻窪を拠点に仲間たちと自主製作映画を作ったり、荒井由実が所属するレコード会社から頼まれてユーミン・ファンクラブの発足に手を貸したりしていたが、70年代後半にははっきりと顕在化する時代の潮目の変化を徐々に感じ始めていた。その兆候は、1974年の暮れのコンサートで聴いた荒井由実の新曲「ルージュの伝言」に顕れていた。沼部は「聴けば聴くほど、不快感の募るイヤな曲でしたね」と強い拒絶感を覚える。

 その世界では有名なパックファンとユーミンの断絶である。パックファンが支持したのはファースト・アルバム『ひこうき雲』とセカンド・アルバム『MISSLIM』の世界観であり、今では信じられないことだが、当時は2枚ともまったく売れなかったし、コンサートのチケットも半分も売れなかったが、林の「みんな、男の心意気でユーミンのコンサートに行ってあげようよ!」の言葉に応じてコンサートを満員にすることにも貢献してきたのだったが、サード・アルバムの『COBALT HOUR』の世界観を彼らは受け入れることができなかった。彼らが愛したのは「雨の街を」や、第1期パックの最終回を迎える林美雄のためにユーミンが書き下ろした「旅立つ秋」のような曲だった。「ルージュの伝言」は初期の支持者たちとの間に決定的な溝を作る役割を果たしてしまった。ファンクラブの事務的な話を電話でする機会があった沼田とユーミンの間では次のような会話があったという。


用件が済み、いきなり猪狩から受話器を渡された沼部は、勇気を振り絞ってユーミンに苦しい胸のうちを伝えた。
 「『ルージュの伝言』は好きになれない。ユーミンでなければ書けない曲が聴きたい。次のアルバムでは詞をちゃんと書いてほしい」
 必死の忠告だった。
 少しおどけた調子で「次はがんばりまーす」と答えたユーミンは「でも、もう昔みたいな詞は書けない」とポツリと言った。

『1974年のサマークリスマス』

 この光景に象徴されるように、初期の荒井由実ファンはユーミンの変化を受け入れず、ファーストとセカンド・アルバム以降のアルバムは買っていないという。また、そのことと並行するように、沼田は第2期林パックにも違和感を感じていた。

林パックへの熱中ぶりにも、やや陰りが見えてきた。金曜二部の頃に比べて林美雄がはしゃぎすぎている、無理をして陽気に振る舞っているように思えたからだ。十一月頃から紹介し始めたミュージカル劇団ミスター・スリム・カンパニーへの熱っぽい共感や賛辞も、どこか空回りしているように感じられた。

『1974年のサマークリスマス』

 1975年を境にして、第1期林パックと第2期の間には、変化が起こっている。それは日本のサブカルチャー・シーンのみの現象ではない。世界的に似たようなことが起こっていた。例えば、フランスの現代思想を代表するジャック・ラカンは、次のような重要な局面に向き合っていた、と松本卓也はことの深刻さを確認する。

 一九七五年のある日、ジャック・ラカンはアメリカに向かう飛行機のなかで彼のセミネールの英訳者アラン・シェリダンと「享楽jouissance」というフランス語をどのように訳すべきかについて話し合っていた。「享楽」に「エンジョイenjoy」という訳語をあてることを提案するシェリダンに対して、ラカンはなかなか首を縦に振らない。そして飛行機が着陸し、「エンジョイ・コカ・コーラ」と書かれた看板が目に入ると、彼はすぐさま「駄目だ、エンジョイではない」と断言したのだという。

『享楽社会論』

 ここでは決定的な変化が確認されている。人間の肉体が、より正確には人間の無意識が決定的な変化に曝されていることが確認されている。引用部にある「享楽」という言葉は「情熱」という言葉に置き換えることができる。この時期に「情熱=パッション=受苦」が消滅し、それと入れ替わるように「エンジョイ」が前面にせり上がって来たのだ。情熱は宗教と親和性が高く、エンジョイは経済と親和性が高い。わたしたちの肉体は資本主義に乗っ取られた、と言っていい。そのことに危機感を毛ほども感じていない人間が圧倒的多数を占めるのだから、事態は非常に深刻である。ほんの少しばかり残っているかもしれない1970年代前半の肉体の感触を呼び起こすきっかけに、『1974年のサマークリスマス』はひとつの引き金となるかもしれない。一人でも多くの人に読んでもらいたい書物である。最後は、林パックのエンディングテーマとして使われていた、林美雄が酷愛した映画『フォロー・ミー』のテーマ・ソングを紹介するのがよかろう。


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