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ハードボイルドなふたり(渥美清と小林信彦)

 それが大人びた時代背景というものなのだろうか。あたかも西部劇の酒場における孤独なガンマン同士の緊張感をはらんだやりとり。あるいはハードボイルド小説における夜の波止場での一癖ありそうな二人の男たちの出会い。渥美清と小林信彦の初めての出会いからそれに続く二人の関係性も、いまだマイナーな存在ではあるがプロフェッショナリズムで立とうとする強烈な個人主義者同士が、今にも火花を散らしそうな緊迫感を伴っていて、劇画調だ。今で言う「ノリさえよければ……」という軽薄さなど微塵も感じられない。

 時は1961年。60年安保が終わり、「高度成長」という言葉が登場する前の、「なんとなく日溜まりにいるような」状況であったが、渥美も小林もともにまだ30歳前後である。二人は周囲の世界を注意深い動物のように眺め、功成り名を遂げようとチャンスを窺っていた。テレビ局のリハーサル中(NHKの「夢で逢いましょう」)のスタジオで二人は出会った。最初に鎌をかけてきたのは渥美清である。「金が欲しいねえ」と相手の反応を探るように、小林信彦に声をかけてきた。当時小林は、「小さな雑誌の編集長」をしていたが、それだけでは食えないので、テレビやラジオの仕事も引き受けていたのである。フーテンの寅の名セリフ「さしずめ、インテリ」のような、テレビスタジオにはいかにも場違いな小林に対して、渥美は「金欲しいねえ」「めしでも食うかね」「アベベは本当に清純な青年なんだねえ!」「戦争は起こるかねえ?」と、なかなか意図が理解しづらい質問をぶつけて、小林を戸惑わせる。

 渥美には他人に対する独特な距離感覚というものがって、渥美と知り合って間もなく、小林は「渥美清のまわりには透明な膜があるよう」だと感じることになるが、そうたやすくは本心を見せない渥美は、小林にとって、最初、少し遠い人であった。ところが、コントのリハーサルが始まるや否や、ディレクターの指示通りに、正確無比に反応し、完璧におかしさを体現する渥美の「勘の良さ」に、「ぼくの内部の<ショウ神経>とでも呼ぶべきものに、ぴり、ぴり、と響いていくる」得難い高揚を感じ、渥美との距離が消滅する。渥美は小林の敏感な部分を心地よく刺激した。そして渥美も小林に対して得難い理解者を見出した。

 こうして二人の深い交流が始まり、小林信彦言うところの「無邪気さと計算高さ。強烈な上昇志向と自信。人間に対して幻想を持たない諦めと、にもかかわらず、人生にある種の夢を持つこと。肉体への暗い不安と猜疑心。非情なまでの現実主義。極端な秘密主義と、誰かに本音を熱く語りたい気持。ストイシズム、独特な繊細さ、神経質さ」といった矛盾に満ち満ちた渥美清の複雑な人間性が、愛情と批評を維持しながら、丹念に描かれてゆく。紋切り型のイメージとして確立され広く共有されてしまった「フーテンの寅」という虚像とは、まるで異なる田所康雄(渥美清の本名)という稀有な人間像を読者は目撃することになる。渥美清は、第一線の芸人がそうであるように、「フーテンの寅」というキャラと「田所康雄」という実存を完璧に切り離していた。キャラと実存。現在、一部の精神分析家たちは大掛かりなキャラ全盛を前にして、それに付随する人間の精神と文化の変質に対して違和感を表明しているが、表現の根っこに「狂気」が必須だと考えていた渥美と小林は、古い価値観の支持者であった。若き日の渥美と小林の次のようなやりとりは、半世紀前のハードボイルド小説の1シーンのようである(じっさい1962年のことである)。

「いいこと言うねえ。うん、狂気だな。狂気っていう方がアブノーマルより偉そうにきこえる」
「そうかしら」
「狂気のない奴は駄目だ」
  渥美清は言いきった。
「それと孤立だな。孤立してるのはつらいから、つい徒党や政治に走る。孤立してるのが大事なんだよ」
 その通りだと、とぼくは思う。しかし、<狂気>を抱いて<孤立>するのがどれほど大変か、ほぼ同じ考えで生きているぼくは気が遠くなりそうだった。日ごろ、漠然と考えていたことを目の前に突きつきられ、これでいいのかと迫られたようである。

『おかしな男 渥美清』

 渥美は小林の深奥部を抉ったようである。60年代初期、若く好奇心と野心にあふれるふたりは、他人を近づけさせないといわれる渥美のアパートの部屋で、夜が明けるまで、喜劇俳優のことや映画の話を夢中になって語り合う。また、弘田三枝子という少女タレントの才能を高く評価することで、ふたりは一致していた。「あの子のおしっこを飲めといえば、おれは飲むね」とまで渥美は語ったという。あるいは同時代の若き才能たち、たとえば、植木等やフランキー堺や藤山寛美などについて、的確に才能を見抜き、批評的名言を吐いた。

 1961年から「男はつらいよ」シリーズの第1作が公開される1969年までの雌伏の期間中、渥美が何を考え、どう行動し、どう迷っていたかが、同時代の並走者ならではの観察を通して語られ、それは60年代の大衆文化論としても成立している。渥美が羽仁進の映画に出ていたことは知らなかったし、フランキー堺のインテリ俳優としての側面にも、本書で初めて気づかされた。また、東映の任侠映画から松竹の「男はつらいよ」シリーズへの流れの変化が全共闘レベルで生じていたことも、驚きの事実だった。次のようなやりとりがあったという。


 ぼくは全共闘のなんとか派の一人の青年を思い出す。全共闘世代は<笑いがわかる>といわれたものだが、青年はよく泣いた。ぼくが慰めると、いよいよ泣いて、手がつけられなくなった。
 これは手近な一例であるが、<傷ついた若者たち>は東映のやくざ映画から「男はつらいよ」の深夜興行に移動していたのではないか。その事実を具体的に指摘して、「これはまずい」と、ぼくに言った戦闘的な演劇人がいた。

『おかしな男 渥美清』

 確かに1970年あたりで東映の任侠映画はピークをむかえ(具体的には『昭和残侠伝・死んで貰います』)、1972年の藤純子の引退映画『関東緋桜一家』をもって終息する。1972年に小林信彦は『日本の喜劇人』を刊行するが、そのなかで、「男はつらいよ」シリーズに触れ、「渥美清の芸は、うまくなるほど自己完結的になり、保守的になってゆく」と述べている。その言葉の真意は本書では次のように語られている。

 これは率直な不満である。「男はつらいよ」の枠の中にとどまる限り、渥美清の芸はもう変化することはないだろうと読んだからだ。
 次に何をやるか分らない彼の奔放な演技を見ていた世代の、これは一つの声である。ややこしくなるから、今まで、あまり書かなったが、この人のおかしさは、もっとめちゃくちゃなものだと納得できるはずだ。

『おかしな男 渥美清』

 1972年以降、「闘争」という言葉は死語となり、80年代にはNGワードとなる。80年代前半にはそれに代わって「ニュートラル」という言葉が時代のキーワードとなった。「闘争」が復活するのは、1988年の『闘争のエチカ』(柄谷行人・蓮實重彦)あたりからである。

 とはいえ、「男はつらいよ」の成功後も、渥美は攻めの姿勢を放棄したわけではなかった。渥美の研究熱心は有名で、小劇場での若い劇団の公演にも自分で並んでチケットを購入して顔を出すことが多かった。1976年夏に、小林が新宿の紀伊國屋ホールへ、つかこうへいの『熱海殺人事件』を観に行くと、ばったり渥美と出会い、「この芝居はもっと狭い劇場でやった方がいいね」とつぶやいたという。『熱海殺人事件』には大御所の森繫久彌も観に行っていて、この芝居は多くの人々によって興味を持たれ支持された。熱海やブスへの二重にも三重にも屈折された切ない愛は、そのような屈折を経て初めて擁護される70年代の詩であった(80年代にはその詩の部分はすっぽ抜け、たんなる地方差別、ブス差別という凡庸な散文的感性が広がってしまった)。

 そういえば、劇作家の飯沢匡が『熱海殺人事件』を観て、「つかさんは詩人ですねえ」と語ったという。思えば、小林信彦にしろ渥美清にしろ、ふたりは心の奥底に繊細な詩人を隠し持っていたのではなかったか。彼らの梃子でも動かぬ頑固さは、詩の擁護の発露ではないか。ふたりが共有し合った「<狂気>を抱いて<孤立>する」という生のスタイルは、詩人の生き方であっただろう。

 小林信彦が渥美清と最後に言葉を交わしたのは1988年5月3日、新宿のミニシアター近くのことであった。リチャード・フライシャーの『おかしなおかしな成金大作戦』をこれから観ようとする小林とそれを観て劇場から出てきた渥美が鉢合わせとなったのである(リチャード・フライシャーというシブいところが、渥美と小林らしい)。最初の出会いから30年近くも年月が過ぎ、ふたりはともに55歳(小林)と60歳(渥美)であった。年相応に体が弱ってきたという話題が出ると、小林は笑い出し、「こんな会話、あなたと交わすなんて、思ってもみなかった」と思わず口にすれば、渥美は「昔は、二人とも気鋭だったのにねえ」と応じる。渥美のその言葉に小林はぎくりとし、その言葉が自分にふさわしいかどうか判断できないでいる。

「気鋭かね」
「そうだよ。がんばってきたじゃないか。お互い、働く世界は違ってたけどさ」
相手はぼくを凝視した。
 ぼくは納得できなかった。だが、そこにこだわるのも大人げない。
 もう少し話を続けたかったが、近くにゆっくり話せる場所がなかった。
 ぼくの浮かぬ顔に気づいたのか、彼は「まあ、映画、観てらっしゃい」と言った。
「あまり期待しないで観るよ」
 ぼくはかすかに笑った。
 ようやく気づき始めた通行人がこちらを見るようになった。狭い道だから、当然の成り行きである。
「身体、気をつけて……」
 ぼくが言いかけると、
「そっちこそ……」
 細い目に優しい色を浮かべて、渥美清は会釈した。
「じゃ、また」
 さりげなく片手をあげた彼は、あごを引くようにして、ゆっくり歩きだした。
 彼の姿を目にした最後だった。

『おかしな男 渥美清』

 いい場面だと思う。ハードボイルド小説のラストシーンのようである。歳をとってからかつての仲間と「気鋭かね」「そうだよ。がんばってきたじゃないか。お互い、働く世界は違ってたけどさ」という会話を交わせるのは、幸福なことだと思う。


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