体罰について

体罰を肯定する言説がこのところ話題になっていますが、彼のしたことを詳しくは知らないので、以下に述べるのは、あくまで一般論です。

あまり指摘されませんが、体罰を否定しなければならない大きな理由の一つに、暴力が楽しいという点があると思います。暴力に口実(大義名分)を与えると際限がなくなります。それは享楽だからです。
かつて、学校教師が生徒に振るった暴力は「愛の鞭」と言われました。「殴る方だって痛いんだ。しかし愛があるから、それに耐えて殴るのだ」という風に。
同様に、妻や子供に暴力を振るうDV男のうちの多くは自分を被害者だと思っているそうです。
最初、その話を聞いた時は驚きましたが、徐々に納得しました。
DV男たちは、体罰教師と同様に「自分は殴りたくはないのだ。向こうがオレに殴らせているのだ」と考えているようなのです。「何故オレの気持を分かってくれないんだ。こっちだって辛いんだ。オレを苦しめているのはお前の方だぞ」という訳です。
そういう人間は、決して「内心、女房を殴るのが楽しくて楽しくて仕方ないんです」とは言わないでしょうね。そんなことを言えば非難を浴びるのは当然ですから。
かつての体罰教師だって、暴力が好きだから教師になったのだとは言わないでしょう。また、自分だって意識の上では、そうは思っていないでしょう。
しかし、自分自身をも騙すように、まるで偶然を装うようにして、その職業を選択した可能性はあると私は思っています。
DV男だって、幸せな家庭を築きたいと最初は思っていたのかも知れません。けれど、内心では、他人の眼の届かない所に弱者を引き込んでいたぶってみたいという欲望があったのではないか。その可能性は否定出来ないのでは、と思います。(勿論、とはいえ、個別の事例において、そう簡単に決めつける訳にもいかないですけどね。真相は誰にも分からないことなのだから)
実は、私にしても、突然頬を叩かれて、はっとして自分の愚かさに気付いて、人生をやり直すきっかけになったとか、そういった瞬間を否定はしません。暴力の効用は確かにある。それはそれで貴重な瞬間なのだろうと思います。体罰で立ち直った生徒もいるでしょう。
(ただ、個人的には、かつて受けた体罰で有効だったものは一つもないと感じます。むしろ口頭で注意された方が、深く反省させられます。暴力というのは、その時に痛いのを我慢して、あとでペロッと舌を出していれば、それで済むものですから)

ただし、繰り返しになりますが、自分でも気付かずに暴力を志向している人間に口実を与えてしまうのがどんなに怖ろしいことか。享楽に大義名分を与えたら止らなくなります。体罰とDVは違うという方もいるかも知れませんが、本質的には同じものだと思います。違いは、大義名分があるか、ないかだけです。良い面より悪い面があまりに大きい。

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