見出し画像

恋人は一人だけという決まり事について

友達を「たった一人」に絞らなければいけない社会通念が一般的な世界に生きていたとしたら、どうなるだろう。

目の前の友達は、本当に自分と一緒にいて楽しいのか、自分はこの友達と一緒にいて良いのだろうか。お互いにもっと良い人がいるのではないか?

と、常に考えてしまわないだろうか。一緒に遊んだり出かけたりするたびに、その判断について悩んでしまわないか?

もちろん、友達は何人いてもいいものだ。そうであるからこそ、物理的な距離が遠くなったり、興味の範囲が変わったりすれば、自然と一緒の時間は減っていくし、物理的な距離が近くなったり、興味や仕事の範囲が近くなれば、自然と一緒の時間は増えていく。

そう。友達と一緒にいる時って、今この目の前の、「一緒にいる時間」について、あれこれと合理的な判断に迫られる心配はない。その時の感情に従って、遊ぶ約束を入れたり、断ったりすればいい。いつ解散してもいいし、朝まで一緒にいてもいい。この感覚は心地よくて、自然な感じがする。時と社会情勢の流れに揺られながら、「自分の精神」に素直に身を任せていれば良いのだ。そうすれば、いつか満足度の頂点に収束する。

めちゃくちゃ雑に図にするとこんな感じのイメージ。

積分関数の最適化みたいなことになる

実際にはこの関数自体(この図でいう曲線の形)は、社会情勢やあなたの精神構造(なにを楽しいと感じるか)の変化によって、常に緩やかに変化し続ける。かつ、上の図は2次元だが、実際の世界と脳の構造はもっと圧倒的に複雑なはずなので、これがn次元になっているのだろう。この関数の線の上を、あなたは複数の変数を動かす。この図では動かせるのは横軸Xだけだが、実際には、例えば居住地の選択や、日々の無限の判断 = 変数 : 次元の数によって、点Pを移動させて、ぐにゃぐにゃ動く関数の中で、精神の駆動力によって、満足度(Y軸)を高めていくことになる。

これは、お互いが楽しい関係性に収束していきそうな感じがある。変数を自由に動かせるから、頂点に辿り着く可能性が高い。

でも、恋人は違う。恋人は、「ひとり」じゃないといけない。つまり、その多くの変数を固定させなければいけないということだ。



「ひとり」縛りによって点Pの移動範囲が固定される


例えば、この赤い枠の中に固定されちゃうから、本来はもう少し高い満足度の頂点が、もう少し右に行けばあるのに、これにたどり着けなくなっちゃうかもしれない。ってことだ。


この、「赤枠で行動範囲が狭められる」というのが、「付き合う」や、「結婚」によって生まれる。

そうなってくると、この赤枠の固定に、僕はめちゃくちゃ慎重になってしまう。いや、みんなそうだと思うんだけど。

しかも、この赤枠固定には、大胆な切り替え手段がない。

これらの不自由は、全て、スロットが「1」しかないことが生み出した問題だと思う。

他の例で例えるならば、学校や、仕事は、スロットが「1」しかない。(ダブルスクールや、複数の会社で働くこともあるかもしれないが、基本的に時間は限られていて、社会保険の制度などは、「1」を基本として形作られている。)

だから、進学や就職や長期的なプロジェクトは、慎重に選ぶ。選んだ後も、定期的には、「この会社に居続けていいのだろうか?」って考えたりする。

進学はわからないが、就職は、インターンという制度がある。複数の会社にお試しで働いてみて、選ぶ。

でも、恋人は、複数インターンすることが許されていない。ように思う。

結婚もそうだ。結婚生活なんて、絶対にインターンしないとわからないと思う。なのに、複数の結婚生活にインターンしにいくことができない。

恋人についての不自然さについては、もう一つある。

開始時と終了時に、それを宣言しなければならないということだ。明確に、「付き合い始めた日」という時点と「別れた日」という時点が存在しなければならないということだ。

自然界に、開始点と終了点なんてない。何かを区切る、って発想は、自然じゃなくて、視野を狭めたり固定したりする行為だ。

つらつら書いてしまったがなにを言いたいのかといえば、恋愛という、とても自然な感情的行為の周りに、「自由を狭めて価値観を固定することで幸せを求めようとするキリスト教」っぽい感じの社会通念が、地雷的に散りばめられているということだ。


で、それは今の時代の流れにあってるの?という問いかけだ。



情報化が進み続けまくっているこの百年。

世界の津々浦々が、TikTokとYoutubeと5Gによってどんどんつながっている。人類が生涯にかけて受け取る、目と耳と鼻と口から入ってくる(現時点のテクノロジーでは目と耳)情報の量は、指数関数レベルで、本当に本当に、増加している。

出典:情報通信白書平成26年版、IDC’s Global DataSphere Forecast Shows Continued Steady Growth in the Creation and Consumption of Data

インターネット環境下で生きる現代の人々は、10年前のそれと比べて、圧倒的に「地球上には、本当にいろんな人間が存在するんだなー」っていうのを目にしている。

それがLGBTQ的なマイノリティーに焦点を当てるきっかけ(村単位で見るとマイノリティーだけど地球単位で見ると一大国くらいの勢力になることに人々が気づいた)になったり、資本主義を回すための欲望の回転装置になったりしているんだけど、とにかく、ここでは、

江戸時代の小作農家ならば知る術すらなかったであろう、地球の裏のセレブリティのライフスタイルが、脳に入り込んでくる。インドを旅するバックパッカーの生き方から、ウイグルの農民工の家庭のお話まで、「無限の生き方がある、ということを知ってしまった人」が指数関数的に増えている。

価値観を何かで固定すること、囲んでしまうことへの不安、が、認知されやすくなってきている、ということだと思う。(ちなみに僕は、今時点(25歳)では、視野をMAXにしたい、と熱烈に思っている。)

恋人はひとりまで、というのも、そういう「固定」系の価値観のうちの一つだと思う。

これに対する批判は、ポリアモリー実践者たちによって昔から行われてきたものだが、ずーっとマイナーな存在だった。もしかしたらアップデート、というか、メジャー価値観への移行期を迎えているのかもしれない。

じゃあ、ポリアモリって、次にメジャーになりうる価値観だったりするのかな。


自分の中で未解決の部分について

で!!合理的に考えると、上の通りなのだけど。

実際、今目の前にいる自分の恋人が、自分の友人とも定期的に肉体関係を持ち、自分の友人との間の子供と、自分との間の子供の二人を、友人と自分と恋人の三人で育てている、という状況を想像すると、「嫉妬」と、「気持ち悪さ」の感情が湧いてくる。

という最悪な状態が現実問題として自分の中にある。

で、さらに、これが、有性生殖やその進化圧によって生まれた感覚なのか、後天的に両親や、世に蔓延るキリスト教的価値観によって植え付けられた価値観からくる気持ち悪さなのか、が、全然わからない。(つまりアップデートできる価値観なのか、備え付けのものなのか?)

どちらにせよ、合理的にはポリアモリをめちゃくちゃ理解できて共感できるが、いざ、実践、となると、どうも気分が上がらない。

この矛盾を解決しないと、僕は結婚という選択を取れないかもしれない。

誰かと話してスッキリしたい。

色々考えたけど、結論

でも、相手に熱中している時って、この人が、本当に35億分の1の精度のマッチング相手なのか、なんて、どうでもいいって感じになるよね!!

そんなのどうでもいい。合理的かどうかはどうでもよくて、今、一緒にいて楽しいから、それでいいって感じ。確かに合理的に考えたらそうかもしれないけど、そんなのどうでも良くない?って感じ。

そう思えること、が正解なんだと思う。だって、35億分の1の山の頂点なんて測れないんだから。そんなこと気にしてる時間があったら、今目の前の二人の時間を楽しめってよ!

こういうことをグラフで考えたりするやつは、机の上で考えてばかりで、経験をしてないんだよ。理屈では説明できないけど、ナンかいいよね!っていう体験って、いっぱいあるからね!

僕の場合は、そう思わせてくれる人を大切にした方がいい。一人でいると、いっつも点ピーとかグラフにしたり構造化して体系的に何かを理解しようとしちゃうんだ。音楽もアートも全てそうで、意味を求めてしまうんだ。。。!

合理机上モードになっている時は、写真フォルダの画像が極端にスクリーンショットに偏っていたり、家にいる時間が多かったり、するんだよ。

でもその代わり、そういう時間のおかげで、プログラミング的スキルやツールを使いこなすスキルの習得があったりするんだけど。

この、感覚的ドライブと、机上的ドライブのバランスが、最近の自分の重視する点になっている。

時と場合と求められるものによって、この二人の自分を上手に切り替えれば良いんだ。

って感じに文章を持っていきたかったけど、うまく構成立てられなかった。

でもさ、構成なんてどうでもいいか!この感覚があなたに伝わればそれでいいんだヨう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?