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オンラインやネットで済ませてしまえばいい

ポジショントークします。

インターネットの恩恵

Windows95が発売されたのは1995年で、そこから早くも25年が経過したわけですが、iPhoneが衝撃的な発表を受けて登場したのは2007年。13年前の出来事ですから、それほど時間が進んだようでいて、そうでもないようにも感じます。

95年以降、インターネットが各家庭に普及し、ぼくたちはそのオープンなネットの世界にドンドンと引き込まれていて、いまとなっては個人情報云々と声高に叫びながらも、各個人が個人情報や思考・意見を存分に発信している時代になりました。それがいいとか悪いとかを議論すること自体は、すでに不毛な領域にまで突入していて、「する」のか「しない」のかを個人が判断していい時代になったのだと受け止めるべきだ、とぼくは考えています。誰かが決めるのではなく、自分で決めていいのだ、と。

その恩恵で、ぼくたちは何を得たのかといえば、物理的な距離を超越することができました。時間に囚われることなく、連絡を取りたい相手にメッセージをログとして残すことができました。これまで知らなかった世界を、他者の目線で切り取ることができるようになりました。自分が考えたことや悩んでいることを自発的に発信できるようになりました。同じ悩みを持つ人たちがいることを知ることができました。まだまだあるでしょう。それだけ、インターネットによってもたらされた「リンク・シェア・フラット」の世界観である「インターネット的」世界(※)は、ぼくたちにとって生活のインフラとして定着しています。

これを否定的に見ようと思えばいくらでも見ることができますが、それは自動車に乗ることができるけど、自動車に乗るような社会を否定するのと一緒で、「わかるけど......」となってしまいます。要否を問わず、すでに「定着している」のがインターネット以後を過ごす我々の生活です。

『インターネット的』糸井重里著より

済ませられること

自動車で移動できるようになってから、ぼくたちは歩いて移動することや馬車で移動することを「車で済ませられる」。掃除機を利用することで箒(ホウキ)や塵取りを利用しての清掃ではなく「掃除機で済ませられる」ようになりましたし、板や物干し竿を利用していた洗濯も「洗濯機で済ませられる」ようになっています。

何がいいたいのかといえば、技術の進歩によって、ぼくたちの生活は機械に「代替させる」などして「済ませられる」ことが増えてきていることをいいたいのです。そんなこと、改めていうまでもないのかもしれませんが、なぜか、働き方においてはいまだにそれを前提にすることを許すまじというか、受け入れることすらできない人たちがいて、それが組織特性によるものなのか、個人特性によるものなのかにもよるのですが、強固なまでの反対姿勢に対して、ついつい、どんなことを提示したら納得してくれるのかっていう点において思考を巡らせなければならない状態になっていることがツラいのです。

冒頭でも書きましたが、これは完全にポジショントークです。ぼくは現在、所属する器がネット関連の事業を営む組織であり、ネットの恩恵を真っ向から受けることができる組織体ですから、恩恵を受けて代替させる、済ませられることが多いのです。逆を返せば、真っ向から受けられるからこそ、ネットの世界特有の、ドンドンと情報が入れ替わるような状態でもあるので、そこについて行くことに必死にもなるわけで、それもそれでそんな風にしてコロコロと変わる「環境」が苦手な人たちからしたら、それも「ツラい状況」なのかもしれません。

それでも受けられる恩恵は享受しよう

もちろん、オンラインに代替できないことは多々あるでしょう。たとえば不動産関係でいえば、建築する際に資材を運ぶことは機械に代替できないかもしれませんし、いわゆる職人芸と呼ばれるぐらいの精密さで食器をつくったりする人たちの仕事も、代替できるものではないかもしれません。他にも、スポーツなどの指導にあたっている人たちの仕事も、なかなか代替できるものではないかもしれません。あくまでも「現時点で」ですが。

ただ、「手紙を書いて出す」なんてことも、「メール」や「チャット」で代替できるようになりました。まさか手書きでは気持ちが込もっていて、メールやチャットには気持ちがこもっているようには感じない、なんて人はいないでしょうが、少なくとも仕事や用事を依頼するのにメールを使用せずに書簡で、飛脚を走らせる、もしくは、自らの足で歩いていき、持参する人なんて現代にはいません。中にはいるのかもしれませんし、手紙は手で書きたいという人がいなくなるとは思いません。メールやチャットが生活インフラとなっているのであれば、希少性があり、その人の魅力になっていくことだって、ぼくは否定しません。

それでも確実に恩恵を受けているのは間違いありませんし、それで労力も時間も短縮、軽減できている事実はあるわけです。それは手紙だけに限らず、会議なんかもそうでしょうし、仕事の場所なんかもそうでしょう。いずれにしても再考することで、無駄だと思っていることが炙り出される「オンラインで済ませられること」は決して少なくはないと思っていて、素直に取り入れることによって「人が考えるべきこと」に時間や労力を回すことが可能になります。いわゆる生産性を上げることにつながるわけです。

ポジショントークをしているからといって、ぼくは無慈悲で冷血な人間ではないような振る舞いをしているのかといえば、決してそんなことはありません。むしろ、人に会って話をすることや人が集まる機会を設けるのはうれしいですし、やりたいと思っていますので、人間くさいことは大好きなのです。

それでもオンラインで代替できること、済ませられることは、バサバサと切り捨てるぐらいにやっていくべきだと思っていますし、やることによって少しずつだったとしても「時間」と「労力」を捻出する方が価値があると思っています。どうせ人生なんて決まった時間しか過ごせないのであれば、有益なものにしたいよね、というだけなのです。


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