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「頼むよ。ちゃんとやってよ。ずっと僕見てるから。ちゃんとやってよ。」イチローのこれ、大人なら丁寧にいってあげたい言葉だよね。

##書いたこと
イチローが智辯和歌山ちべんわかやま高校へ指導というかに行ったって報道を思い出し、改めて内容に触れてみた際に感じた「ちゃんとやってよ。ずっと僕見てるから。」は大人だからこそ丁寧に言いたいよね。

1991年にドラフト4位でプロ野球入り、翌年の1992年にデビュー。2000年にMLB(メジャーリーグベースボール)へ。

2004年には年間最多安打記録を更新した他、アジア人として初めて首位打者と盗塁王のタイトルを獲得やシーズンMVPなど、日本のスポーツ選手史に残る活躍をしてきた選手。それがイチローだ。

2019年に日本での試合後に引退をした後、学生野球資格回復研修制度を受講し、2020年に学生野球資格を回復したのを経て、引退後の草野球活動を開始した頃から交流があった智辯和歌山高校への指導が実現していた。

どうも、おはよう!会えなかった時のために、こんにちは!こんばんは!おやすみなさい!えんどう @ryosuke_endo です。

「ちゃんとやってよ」をちゃんと言える大人

この言葉の中身について簡単に触れておこう。

まず、イチローが智辯和歌山で行った指導は、長時間練習になりがちな高校野球において、どうしても本能的に体力が持つように温存してしまいがちになるからこそ、キャッチボールで一球目から本気で投げ込むことで「投げる限界を超えること」や、バッティング練習でも「フルスイングでとにかくボールを遠くに飛ばすこと」を実践して見せながら伝えていた。

もちろん、その前提にあるのは投げる動作や振る動作を身に付けることだが、それができた上で、とにかく自身の限界を超えられるよう「本気」で取り組むことを3日間の中で実際にやって見せていた。

それを踏まえ、三日目の最後に智辯和歌山の球児たちへ残した言葉が「頼むよ。ちゃんとやってよ。僕ずっと見てるから。」なのである。

「ちゃんとやる」とは簡単なようで難しい言葉だ。

どこに基準を置くのかによって変わってくるものだからこそ、口に出すことをはばかってしまいかねない。現実、大人で「ちゃんとやる」という人は多くないだろう。どうしても子どもが叱られたり注意された際に述べる言い訳からの決意表明のように聞こえてしまうからだろう。

イチローは智辯和歌山の選手たちに1日だけフラッと参加して上っ面の言葉だけを残したのではない。

最後に「ちゃんとやってよ」が彼の口から出たのは、それが残るような活動を共に行ったからに他ならず、山本五十六の「やってみせ」を彷彿とさせる指導をしたからこそ、指導を受けた側に「残る言葉」となった

「僕ずっと見てるから」のが重たい

指導を受けた側が「ちゃんとやる」という言葉を思い出せるだけの時間を提供できたこと、それを言葉で残し後々想起できる状況を生み出していることも踏まえ、イチローは非常に有能な人である。

ところが、ぼくがそれ以上に丁寧に使いたいと思えたのは、その後に続く。

「僕ずっと見てるから」

これだ。

ちゃんとやってよ。そう述べることは上でも書いたが容易い。簡単にいえてしまう。ちゃんとやってよと述べるだけで相手に責任を押し付けることができる意味でも、丸投げするのに適した言葉でもある。

もちろん、イチローは上っ面な言葉だけにとどまらず、映像や残像などの「像」として残るだけの姿勢や態度を示すことで言葉に形のない実態を残すことをやってのけており、非常に高度なコーチングをしている。

それを補完するのが「僕ずっと見てるから」なのだ。

「イチロー」が「ずっと」「見てる」なんてあり得ないと思うかもしれない。しかし、彼ならやりかねないと思わせるだけの姿勢と態度を目の前で披露され、実像として表現されたことを知っている当事者たちは、その言葉をしっかりと受け取ることができる。

これははたから見ているだけだったり、映像だけを見ているだけの人間からするとすっかり抜け落ちてしまいかねない言葉だが、実はこちらの言葉の方が大事で重たいのだ。

「見てる」を実践できる大人でいたい

仕事でもそうなのだが家庭生活においても、この「ずっと見てる」の言葉が非常に重く、軽々にいえないことに気づく。

何よりも僕は無能の頓珍漢であるから、抜け漏れが多分にあるため他人の心配をするよりも自分の心配を繰り返し行わないことには大変なことになってしまう。いや、自分の心配をしているからこそ、他人に目を配ることができないのかもしれない。

いずれにしても、この「見ている」ことは言われる側の安心感と緊張感につながるし、有効に活用することによって個々人の気づきや成長を促す大切な行為になる。

信頼をおける、尊敬を感じる「人」から見られていることを意識することは、常に自分の行動を問うだけの理由になり得る。実際に毎秒毎分のチェックを受けるという監視対象という意味ではなく、時折、自身の行動が実像や残像として残る理想像を目指せているのかを想起させるのに打ってつけの言葉なのだ。

無論、いえばいいわけではない。そこには信頼感が必要なのだ。

互いに信頼を実感する体験があるからこそ、この言葉には体温と体重が乗るのであり、それもないのに発せられようものなら、ただの空虚な文字面だけの言葉として空中に消えてしまう。

イチローが発した言葉だからこそ注目を集める言葉になってしまうのかもしれないが、信頼のおける人であるのかどうか、自分のことを真剣に考えてくれている人なのかどうかを相手が実感しているのであれば、イチローでなくても受け手にとって非常に味わいがいのある言葉になる。

だからこそ、僕自身は「見てるから」を丁寧に述べられる人でありたいと思う。

まぁ、今後50年は無理かもしれないが。

ではでは。

えんどう

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