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「誰でもない何者か」ではなく、「ぼく」であろうと思った。

2019年11月現在、ぼくは生きている。こうやって文章を書けているのだから、手指は動くし、確かに息をし、目で物を見て、耳で音を聞いている。

けど、ぼくができるようになりたかったのは、こういう些細なことではなかった。

ぼくは小さい頃、「何者か」になりたかったんだ。小学生になっても、中学生になっても、高校生になっても、何者かになりたかった。実際に「なれる」と思っていたし、自分にはその資格があって、その動機があるのだと考えていたし、そうだと信じてやまなかった。

10年経ち、20年経ち、30年経ち…

小さかったあの頃のぼくは、年齢と共に発達を遂げ、成人男性として見られるぐらいの体になった。いや、むしろ成人男性はすでに凌駕しており、中年男性としてみられるぐらいにはなっている。

そこで、どうだ。本当に「なりたい何者か」になれているのかどうかを確認するために蓋を開けてみよう。いや、もう蓋を開けるまでもない。ぼくは年齢相応のナイスミドルになっているのかと思いきや、とんでもなく冴えない中年男性になってしまっているじゃないか。

イメージしてきたキラキラしていて、一昔前の「貴教・メイクス・レボリューション(T.M.Revolution)」ぐらい、暴風に髪がなびいても少しも揺るがず、右肘と左肘を90度に曲げては「マアメイド〜♪」と歌い切れるぐらいに勢いのある男性になっているのかと思いきや、なれていないではないか。

見た目的な問題だけならばまだしも、年齢相応に精神的な意味での「大人」になったのかと言われれば、自信がない。いや、自信がないどころではない。むしろ、年齢ばかりが嵩(かさ)んでしまっていて、最近ではもう少しで6歳になる長男の方が精神的には遥かに上なのではないかと思えるぐらいだ。なんなら、こないだ口論したら論破された。

そこで実感するのだ。「なりたかった何者か」になれていない事実を。


これを受け止められているのか。受け止められているようでいて、受け止め切れていない。ぼくはまだ、受け止め、諦めることが「大人になる」ことなのだと勘違いしているのかもしれない。つまり、ぼくは「信じていた」のであって、「考えてこなかった」のだ。

自分の行動や言動、思考に至るまでを分類しては整理し、理路整然と理由を述べられるようにするための「考察」を怠ってきたし、それをするべきなのだと知らなかった。

「知っていた」ら「できたのか」と言われれば、甚だ怪しい。なぜなら、知っていたとしても見てみぬふりをできてしまうのが、ナイスミドルにもなれていない要因の一つだからだ。そう、ぼくは見てみぬふりができてしまう。最低だ。

なぜそう思えるのかと言えば、これまでの人生において「気づく」機会はいくらでもあったからだと自覚している。そして、「気づく」だけでなく、気づきから得られるはずの「学び」も放棄し、堕落した精神構造のまま生きてきたのではないかと自分を疑う。

ただ、ちょっと落ち着こう。いくら「これまで」つまりは「過去の自分」を責め、「いまの自分」を糾弾したところで急激に変わるものではない。

ここで一つ疑問が湧いてくる。なんで、ぼくはそんな風に「何者かになりたかったのか」。ぼくは誰でもないのに、誰かになりたいと思っていた。そこが疑問なのだ。なのだ、なんて書いているとバカボンのパパみたいだが、バカボンのパパを知らない世代からすると、ちょっとやばい中年以外の何物でもない。そういう意味では何者かになれているのかもしれない。

ただ、ぼくがこれまでみてきた、各種メディア(それはもう全国・地方問わずに)で取り上げられる人間は、ステキなまでに編集されているのもあり、誰もがキラキラと輝いている。それをみた、ぼくの周りにいる人たちは、取り上げられた人物や人材を「尊敬」や「尊重」をする。

「あんな風にはなれない」と諦めながらも、羨望の眼差しを送りながら語る誰もが、「誰でもない自分」に嫌気が差しながらも受け止めていたのだろうけれど、それを見てぼくは「カッコ悪い」と思っていたのかもしれない。

諦めかける姿勢を、自分の可能性を閉じようとする態勢を、悲しげに振り返るその精神を。それらを受け止めたいと思えなかったのだ。いや、ただ、諦めが悪かっただけなのかもしれない。

「振り返ってみると、悪くない人生だった」

ドラマの主人公や、人気の出そうなキャラクターが言ってしまうようなセリフを自分だって言いたいんだ。でも、「悪くない人生」ってなんだ。なんで「いい人生だった」ではダメなのだ。言葉の意味合い的には「いい人生だった」の方が明らかにステキじゃないか。人生の最後に遜(へりくだ)ってもいいことはないのに。

そこでちょっと思いついた。何者かになれなければ、誰かから評価されなければ、他人から羨ましがられるような生き方ができなければ、「悪くない」だなんて言えないだろう。

そう思っていたのだけど、どうやら違うかもしれない。「悪くない人生」ってのは、「何者か」になる人生を選んだ、つまりは他人が羨ましがるような人生じゃないんだ、と。自分の人生のあり方や満足の度合いなんて、他人が決めるものじゃない。自分で決めるべきだ。

自分が選択して、自分が決めて、自分が行動してきた結果として、自分に対するご褒美的な発言としてあるのが「悪くない人生」なのかもしれない。そう思ったら、それを言えるニヒルでダンディなセリフを吐くフィクションに登場する連中が、あまりにもカッコよく思てきた。

それでも、いまのぼくにだって、「何かを諦めながらも、守らなければならないもの」があるのだと理解してる。「誰でもない何者」かになるのではなく、「ぼく」であることが最適解とは言えないのだろうこともわかる。

だけど、「ぼく」が「ぼくらしく生きている」と実感できるような選択と決断と行動をすることにこそ、「これでいいのだ」と言えるのだとわかった。

常に考えろ。

常に決断しろ。

常に動け。

「ぼく」よ、「ぼく」になるんだ。

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