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卒園式を終えた長男くんの切り取った過去を観てしまう

1歳4ヶ月で保育園に通いはじめた長男。先日、卒園した。

ぼくと妻さんは夫婦で仕事をしている身ですから、彼の通っていたのは保育園。幼稚園と保育園の違いはといえば、ぼくたち夫婦にとって大きいのが預かってもらえる時間。それ以上でもそれ以下でもありません。

ちなみにぼくは自宅が店舗兼自宅のそば屋を営んでいたのもあり、幼稚園に通ってたのです。制服を着て、父親が漕ぐ自転車の荷台に乗りながら田んぼ道が整備され、しっかりとコンクリートで舗装された道路へ飛び出していくのが楽しかったのは覚えてます。

あ、そうだ。

太陽から逃げようとして走ったけど、いつまでも追いかけてくる太陽に対して絶望し、泣いたこともある。それと「将来なりたいもの」と大人が"それっぽく描かせようとした取り組み"で、他の友人たちは消防士とか警察官と書いている中で「ウルトラマンになりたい」と赤と銀色で描かれた何者かを描いたこともあった。

他にも細々としたものを覚えているし、記憶の中から呼び起こすことができるのだけど、この時の何かしらが今の人生にどんな影響を与えてくれたのかなんて、ハッキリ言ってわからないし、わかったところでどうなのか...とも思うわけで。

ぼくがそうだったからと言って、彼に対して「諦める」わけでなく、過度な期待も抱かないし、深く絶望もしていません。もし、絶望する機会があるとしたら彼と共に過ごせる期間限定時間が何かしらの悪い影響によって、急に断たれることぐらいなのですが、それを未然に防ごうとするのが親の役割を与えてもらっている人間の「すべきこと」。

たとえば、私立で特色のある〇〇園を選んでいたのであれば、逆立ちやバク転ができるようになったのかもしれないし、とてつもない暗記法で脳に刺激を与えられ、すばらしい記憶の定着率を誇れるようになるのかもしれない。だけど、それをぼくや妻さんもそうだけど、本人も大して望んではいなかったから通わせるような方向には話が進まなかったし、そうしたいという強い意志が育まれていたわけでもない。

統計的な事実として、肉体的な遺伝と同じように知能も遺伝することがわかっているため、将来的に長男は可哀想なのかどうかはわかりませんが、結果的に妻さんとぼくの知能に近づいてくる。良くも悪くも、です。ぼくや妻さんも年齢を重ねるごとに、親の知能に近づいていく。これをどんなに感情的に否定したところで、解決する方法など現代においては持ち合わせられないので、受け入れた上で争いたいのであれば方法は一つしかありません。

長男に対して求めたいのは学習面で優秀になることよりも、運動やスポーツで素晴らしく活躍できることよりも『真摯で、誠実で、丁寧な姿勢や態度』であり、それを形作るための『習慣』を身に付けること。それが先に触れた知能が遺伝することに対して抗う唯一の方法です。長男に対して抱くのは、自分自身に対しても、他人に対しても真摯で、誠実で、丁寧な姿勢や態度で臨めるようにななったもらいたいとは願っています。

それ以外、ぼくはどうでもいい。長男だけでなく、次男や三男にも同様のことを考えています。

それだって、ぼくの勝手な願望で、親の役割を担う立場にいるから...と言う一種のエゴだとすら思っています。それに、そんな習慣を身に付けるためには色々な刺激に対して、長男をはじめとした子どもたちが「反応をする」ような環境や状況を用意しなければならないとは思っているのです。

何もかもを用意できるわけではないけれど、できる範囲の中で、共に相談した上で決められることを決めて、提供できるような存在ではありたいと考えているのです

ついつい、手元にあるデバイスから写真アプリを開き、妻さんとの共有アルバム(クラウド)を観てしまいます。彼の生まれてから、今日に至るまでのすべてを観れるわけではありませんが、断片的ながらも親の役割を担っている立場として残したいと思い、シャッターを切って、止めて、保存してある時間を見返してしまうのです。

大きくなった。たくましくなった。優しくなった。

他にもたくさんできたこととか、考えられるようになったことがたくさんありますし、既に妻さんやぼくの考えられる範疇を超えているところも見受けられますので、頼もしいとすら感じることも。

何より、密接な時間を共有できるのは残りわずかなのかもしれないけれど、その時間を大切にすることが、自分の幸福度を引き上げるためには必要な要素なんだと自覚しています。

ひとまず。

長男くん、卒園、おめでとう。これからもよろしく。です。

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