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「上司ガチャ」の裏には「部下ガチャ」あり

 人生において、自らの親を自分で選べないことはガチャでいう「当たり」「ハズレ」であることを一言で表現した「親ガチャ」がソーシャルメディアを中心に話題になったが、この度、なんと流行語大賞でトップ10入りを果たした。最近、それに完全に乗っかる態度で「上司ガチャ」なる言葉がメディア上に躍り出た。

 親ガチャが今年の流行語大賞でトップ10入りしたことがめでたいかどうかは置いておくものの、世の中には思う通りにいかない不平等なものであることを端的に表現したという意味では称賛されるべき表現なのかもしれない。

親ガチャは変更不可能な事実への嘆き

 世の中が不平等であることを嘆くことは誰しもが感じやすい事柄であるのと同時に、親という根本的に選択権すら与えられない事柄に向けて不平や不満を発信することは一般的で目を引きやすく共感しやすい。

 ただ、本当に「平等な実力主義的な世界」が望ましいものであるのかどうかは一考すべきだろう。その辺りの考察と親ガチャについて記載したnoteは以下に貼っておくので興味がある方は覗いて欲しい。いや、ぜひ覗いて欲しい。むしろ、時間を作って読んで欲しい。何ならシェアしながらコメント付きで投稿して欲しい。お願いします。

 「親ガチャ」はまだ理解できる。

 世の中に生まれ落ちた瞬間、どこの誰となって出てくるのかを選ぶことができない上に、妙に生きづらさを感じられる家庭や保護・養育者のもとで生きることを半ば強制的に強いられる以上、抱いたとしてもおかしくはない感情だ。
 しかし、これを述べることができるのは「余裕がある中流層」だとメッセンジャー黒田が自らの出自を前提に述べている通り、そう考えるだけの余裕がある人たちだからこそ出てくる考え方であるとも言える。

 少なくとも、ひたすらにクレームを入れ続けられるクレーマーが「自らの時間を他人へ文句を言うことで占めることが可能な上に無限に投下できる人」であるのと同様、人生にある程度の余裕を持った人たちが発信している可能性も否定はできない。
 
メッセンジャー黒田の子ども時代とは異なり、誰もが発信者としてなり得る時代とはいえ、その発信する術すら持ち得ない人たちは「親ガチャ」と表現することはできないこともまた事実だ。

能力主義や実力主義は誰もが望むことではないハズ

 過去に僕が書いたnoteでも扱っているが、本当に実力主義の世界を誰もが望んでいるのかと言えばそうではないはずだ。

 能力主義、成果主義の世界は「自らの行動によって得られる成果」を評価してもらうと言う意味では平等で差別のない世界であるといえるが、同時に熾烈で過酷な環境でもある。
 その世界線に耐えうるだけの能力と耐久力、持久力を兼ね備えた人間はどれだけいるのだろう。

 正直なところ、それを望む人なんて大していないのではないかと思っている。正確にいうと「自分はその世界線でこそ活躍できる」「実力を評価される世界線こそ自分が活きる世界なのである」と勘違いしている人が大勢いるのではないか。

 「能力主義」や「実力主義」の世界線では、誰しもが実力や能力によって評価される。つまり、誰しもが手を挙げれば評価の舞台に上がることを許されるが、舞台に上がるという機会を与えられる以上「いいわけができない世界」でもある。

 これまで「才能」や「遺伝」、「特性」などの言葉で片づけられていた結果を一斉に排除することになる以上、随分と過酷な世界線であることを理解できるだろう。
 野球をやったことのない30代男性が懸命に努力をしたところでメジャーリーグでホームランを打てるようになるわけがないし、サッカーをやったことのない40代男性が「オレはJリーグ入りする!」と発言しているのを目の当たりにしたあなたは冷ややかな視線を送るハズだ。

 ここまで見てきたことからいえるのは「親ガチャ」にはいいわけができないからこそ成立する背景があって、全く選択権のないからこそ述べられる絶望感が漂うのである。
 しかし、上司ガチャは違う。

選べたとしても「合う合わない」は別問題

 上司がいるということは会社を選んでいるわけであり、少なくとも選んだ上での不平・不満だ

 親ガチャのように完全に改変や変更が不可能な事実としてのしかかってくるのかと言えば「変更が可能な可能性」が生じ、自らに選択権がある以上そこまで重大な事柄でもない。

 ましてや「勤労の権利と義務(ここで書く”義務”は処罰の対象となるものではなく「倫理的な規程にすぎない」と解釈される。また、昨今は不要であるとする説も出ている)が憲法によって定められており、「職業選択の自由」がある以上、上司や会社と合わないのであれば抜けることができるのだ。

 しかもいま、日本には「上司を選べる転職サイト」なるものも存在する。

 これが機能しているのかどうかを検証する術を僕は有していないが、たとえ上司を選ぶことができたとしても「合う合わない」は別問題だ。

 複数回の面接を通して「憧れ」や「期待」を抱いたとしても、実際に働いてみると相互で不平や不満が生じることがあるのは社会人であれば誰しもが経験することだろう。

 だからといって、それを改変不可能で変更が効かない重大な事柄であるかの如く表現することはいかがなものか

 採用してくれる企業や組織がある以上、転職はソシャゲのリセマラよろしく、何回でもやっていい。(それで信用・信頼をされるのかどうかは別だが事実として可能である)

リセマラ(リセットマラソン)
スマホゲーム(ブラウザゲーム除く)でインストールとアンインストールを繰り返し、ガチャで目当てのキャラが出るまで繰り返す行為。インストールとアンインストールをマラソンの如く長時間続けることからリセットマラソン(略してリセマラ)

 ましてや、「上司ガチャ」を許容するのであれば「部下ガチャ」と言う表現についても許容する必要がある
 成果を上げ続けてくれて上司の社内評価を上げてくれるような部下が「レアキャラ」だとしたら、大して仕事もできないくせに文句や不平ばかりを垂れてくる無能は「クソキャラ」である。
 上司をガチャだと評する以上、部下側も腹をくくり「ガチャ」とされることを許容しなければ、それこそ不公平だ。

 結局、ここまで書いておいて何だが、何がいいたいのかと言うと不毛なのである。上司ガチャと言う言葉を取り扱うこと自体、まったくもって何の生産性もない、ただの愚痴であり不平や不満なのだ。

 しかし、ここに雑談の意義深さがあるのだと僕は考えている。いや、考えなければこんな不毛なことについて長々と書くことなどできない。

 以上、不毛な内容を終える。

 ではでは。

 えんどう

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