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入院してわかったこと、ひたすらに書き連ねる

2019年9月16日、救急車で病院へ搬送された。

頭が振動で揺れるたびに吐き気がし、クルマを止めて欲しいと強く願ったものの、その言葉すら出てこない。

うまく喋られないことに、そこで初めて気づいた。

救急車に乗ったのは、34年生きていて初めての経験だ。そして、2度と乗らなくていい。

約5週間の入院生活

故あり、随分と長い検査入院のつもりが療養入院になって33日目。やっと、自宅に帰還できた。

自分の体がどうなったのか、どうなっているのか。いくら検査を行っても、明確に把握できないまま症状だけが軽くなっていく状態だったため、決して気持ちの良い退院ではない。

ただ、「病院」で「入院」することによって感じた内容を率直に書いていこうと思い、入院中からメモに留めておいた内容を書き記していこう。

情報の伝達について

入院中には、身辺の世話をしてくれたのは看護師さんたちだ。

看護師さんたちの姿勢から、就業場所として、またはビジネス的な面でみた『病院』について思考する機会になった。

特に、看護師さんたちは、時間によって代わる代わるではあったものの、きちんと情報の伝達(これはハードとソフトの両面でシステム(仕組み)として機能)を丁寧にしていて、人が変わろうと時間が変わろうと病状の確認をする際にはスタート地点が揃った状態を共有していた。

これ、当然のことと認識するのは簡単だけど、その当然を当然たらしめる基準で遂行できていることは、単純に“すごいこと”だ。

そんな彼、彼女らの姿勢を見て『伝達の仕組み化』って大切なことだなと実感した。

病院でない場所でも、あらゆる職域の中で“自分以外のだれか”を相手にする場合(内容によっては要否の判断がいるものの)、“情報”は整理した上で同僚をはじめとした「だれか」に伝える必要がある。

個人だけでなく、集団となる場合にはさらに注意が必要。組織として活動するのであれば『自分以外の人間』が迷わずに行動できるよう、情報を整えて伝達する。

当たり前のことだが、自分が入院患者として看護師の情報伝達をリレーションをそれを受けてみたところ、その「大切さ」と「当たり前の基準の高さ」を実感することができた。

理由としては、病院が『命』を扱うシリアスな業種なのが影響しているだろうことは想像に難くないのだけど、これは書籍など、字面で読んで理解するだけでは得られない納得感を得られた。

ホスピタリティは“寄りそい”と“おもてなし”

寄り添い方も大切だ。

入院患者の中には決して褒められたものではない『なぜに、そのような横柄な態度を取れるのか』と思うような態度を取っている患者も中にはいる。

そんな人は普段の生活の中での不満や哀しみを、優しくしてくれる看護師さんたちに甘えているのだとしか思えないが、それでも看護師さんたちは“病状を少しでも良くするため”に寄り添ってくれる。

ぼく自身、“患者”として、寄り添ってもらったのでものすごく理解と納得感があるが、その姿勢を見ていて「ものすごい仕事だな…」と感服した。

確かに、人の命を扱う責任は重い。

これからは人口減少が目に見えている日本の中では人が亡くなっていくのに慣れてしまうのは必然かもしれないが、その中で看護師たちは、自身のやりがいを“他人のためになること”と定義し、それを満たす環境として病院があり、その最前線で業務を行うことができている状況は、率直にいって「すばらしい」。

もちろん、実際に仕事をしている方々の思惑はわからない。

「待遇(条件)がいいから」なんてのも大きな理由の一つなのかもしれないし、時間帯での交代勤務制で、夜勤があるのは正直シンドい部分もあるのだと思う。

ただ、“他人のため”に仕事ができて、それを全うした際には確実に『ありがとう』といわれる仕事なんだな、と思うとすごくいい仕事だと思う。

一様に寄り添う姿勢が丁寧な様を見ていると、すばらしい人たちの集まりだというのは率直に理解できるし、(勘違いして欲しくないが)環境として就業条件や状況が用意されているのは恵まれているなとも感じる。

これは働き手と雇い手の思いや、求める内容がものすごく合致しているからこそ成立するもので、根幹にあるのは『命』だ。

その合致具合には羨ましさすら感じるが、現場は現場で上でも触れているように迷惑な患者がいるのはいるだらうから、イロイロと思うところはあるのだろうことは想像に難くない。

だが、本人の希望と社会的に求められる「技能」と、それを提供できる場所(病院)があること、そして、それを発揮するために、寄り添い方を丁寧にする余裕が(裏での努力は言わずもがな)あるんだなぁ、なんて思った次第だ。

医療って情報の非対称性の塊

病院は『情報の非対称性』を活かした健康産業内ビジネスなわけだが、そこに胡座(あぐら)をかけるような時代ではないからこそ、“丁寧な姿勢”を心がけているのだろうことはいうまでもない。

これ、ホテルに泊まる顧客に対する“おもてなし”とは似て非なるものだ。病院患者に対しては「寄り添い」であり、ホテル宿泊者に「おもてなし」に変わる。

どちらも「当事者性」が必須なのはいうまでもないが、欠如している場合、不平や不満につながるだろう。

専門知識の塊である医療界は、超高齢社会を迎え、さらに人口が大きく減少していく中で真っ先に影響を受ける業態の一つだが、その中で行われているサービスがホテルの中でも受けられるんだとしたら、医療サービスのあり方も変わってしまいそうな気すらしている。

問診から診断までをAIが代替可能になるのなら、ホテルでチェックインした際に、ものの数分で処方箋まで提供してくれるようになるのかもしれないし、出張が続くエグゼクティブな方々は、わざわざ病院へ行く時間を割くよりも、ホテルでことを済ませられたら随分と楽になりそうなものだ。

経済を動かす人たちが、フリーアドレス化(住所不定化)するのは一部かも知らないが、一定数存在するようになるだろう。

そうなれば、余計に病院とホテルの間に『受診』が入り込める余地はいくらでもある。

クリアしなければならない法律や整備に時間が必要だなどといわれるかもしれないが、時間や時代は待ったなしで訪れるし、差し迫ってもいる。

「ある程度の都市」から人が減り、街のあり方が集約化される方向にあるのであれば、既存の建物や構造物の集約化も起こって然るべき、だ。

人の集まれる“場所”を減らし、効率化や合理化を図って街のあり方を変化させていくのであれば、あらゆる業種・業態が集約化されるコンパクトな街が形成されていくのは必然的かなぁ、とも。

そんな風にして合理化、集約化が進む中で自分は何をして誰の役に立っていようかなぁ…と考えてしまうわけだ。

そうなると、やっぱり、新潟がドンドン前向きな空気が溢れるステキな雰囲気のエリアにしていたいと思うし、そうなると企画を立てて、仲間集めて、実行して…ってのを繰り返していける人でいたい。

やっぱり家族はいい

正直、入院中には随分と気持ちが落ちた。

これは死を覚悟したわけではないし、そこにまで至るようなものではないのが、検査上、明確になったのだけど、病室にこもって数週間以上を過ごすのは隔世の感がある。

自分が世の中から断絶されて、リアルな体験からは程遠い環境にいるのに、そのリアルな体験の場はすぐそばにあるのを認知できるわけです。

その際たるものが家族の存在だ。

ぼくは入院するまで家族ともに過ごしていたが、入院していては当然ながら共には過ごせない。

たまに顔を出しに来てくれる子どもたちや妻の表情を確認するだけでも、精神的な安寧を得ることができたし、それを人生の中で得ている、得続けている、その事実がうれしいのだと痛感する。

いまはそれをすごくありがたいことだと、すばらしいことなんだと実感することができているし、その実感を与えてくれる存在が身近に感じられることを心底うれしいと思ってもいる。

みなさんが健康でありますよう

正直、あまり経験したいとは思えないものではあったが、だからこそ、気づいたことやこれからのために感じたことが多々あったのだと思っている。

細かいところで言えば、ここに書いたものだけでなく、いろいろとあったりするが、あまり書きすぎても仕方ないのでここまでにする。

改めて、自身の健康を害するのは何をするにしてもプラスには働かないな、と実感した次第だし、何より、みなさん、健康には気をつけましょう。

みなさんが健康であることと、より一層の活躍をしていけるように応援しています。

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